金華山の山上に存在した城跡について解説します。
戦国時代の山上の様子
(戦国時代の様子)
宣教師ルイス・フロイスの訪問記録などによれば、織田信長公は普段、山上に住んでいました。山上は、城主や家族のほか、重要な客など、ごく限られたもののみが訪れることを許された場所でした。
(構造)
金華山は全山がチャートという石材でできており、自然地形の切り立った崖がいたるところに見られる「天然の要害」です。この地形を基本に、限られた場所に石垣を築き、平場や通路などを造っています。安土城など後の時代の城に繋がる技術が感じられます。
<<赤い場所をクリックすると詳細が見られます。>> 岐阜城跡山上部概要図(作図:中井均『岐阜県中世城館跡総合報告書』2003より一部改変)
①伝 一ノ門跡
門があったと伝わります。現在は倒れた巨石や石垣を見ることができます。上の斜面には「伝 太鼓櫓(現 レストラン)」があり、一体となって敵の侵入を防ぐ構造であったと考えられます。
伝 一ノ門跡
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②切通(堀切)
敵の侵入を阻害するために、山の尾根筋を深く削り取った場所です。岐阜城では、こうした人工の防御施設は珍しく、切り立った天然の地形自体を利用して敵の侵入を防ぐ構造であったと考えられます。
切通(堀切)
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③伝 二ノ門跡
折れ曲がった枡形の通路で、入口には大型の石材を使用した石垣が残っています。大正時代の古い写真でも現在と同様の様子が確認できるため、戦国時代の通路の形がそのまま残っていると考えられます。
二ノ門跡付近の石垣
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④天守へ至る通路の石垣
本来は大きな谷となっている場所ですが、谷をつなぐように両側に石垣を築き、通路状の平坦地を設けています。岐阜城跡に現存する石垣の中では、最も当時の姿をとどめています。
天守に至る尾根の東斜面の石垣
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⑤岐阜城天守
戦国時代の岐阜城に天守が存在したかは不明ですが、現在の天守の場所には三段の石垣が一部残っていて、象徴的な場所であったことは間違いありません。
天守からは長良川や濃尾平野を一望できます。信長公もこの光景を見て「天下布武」を目指したのでしょう。
岐阜城天守
岐阜城天守の上空から西を望む
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