織田信長公居館跡発掘調査の現地説明会を開催します!

岐阜市では、織田信長公居館跡の建物位置や構造を調べる発掘調査を行っています。平成27年度の発掘調査現地説明会を、下記日程で開催します。

≪現地説明会日程≫
【公開日】      平成28年2月27日(土)
【公開時間】  10時から12時、13時から15時(少雨決行)  ※公開時間を延長しました!!
【場所】          岐阜公園内(ロープウェイ山麓駅南側)
                      ※10時、13時より担当者による全体説明(約20分)あり
【公開当日の連絡先】
                      8時30分から15時まで対応
                      058-264-4480(信長公居館発掘案内所)

 

<発掘調査でわかったこと>

【C地区西斜面の調査】

◎東側、南側を巨石、北側を石垣に区画された庭園を確認

・西側は削平のため不明だが、池の形状は方池(ほうち)である可能性が高い。

・池の範囲:東西6m以上、南北6m(36平方メートル以上)

・池底は川原石と角礫で化粧を施している。礫は赤色のものを意図的に使用。

・池中央部の巨石は景石(けいせき)に相当する。

・水の取り入れ口は巨石①の上部と考えられる。

・巨石列の上に金箔瓦等を使用した建物が存在した可能性が高い。

【C地区平坦部の調査】

◎工事途中に設計変更、大規模に敷地を拡張したことが判明

・拡張前と拡張後、2時期の石垣が存在することが判明した。

・拡張前の石垣の基盤となる整地層は不自然な階段状で、途中で途切れている。また階段状整地に石垣等の土留め構造がみられないことから、工事途中であったとみられる。

・拡張工事の際、排水のため、整地の途中に礫を広範囲に入れている。

 ⇒地下に浸透させた水を処理する機能。拡張の際に計画的に造られた。

【C地区北西斜面の調査】

◎拡張前の段階で、鍛冶・鋳造に関係する工房等が存在していたことが判明

・拡張前の段階では館が未完成で工事途中であったことを示す。

 

<調査成果のまとめ>

◎C地区では、1567年の信長公入城後に行われた造成工事中に計画変更、敷地を拡張していたことが判明した。
 ⇒拡張前の段階では、屋敷として完成していなかった。
 (整地層の状況、鍛冶・鋳造関係の工房の存在)
 ⇒西斜面で見つかった庭園は拡張後に造られた。
 ⇒拡張後の建物、庭園等はフロイスが来訪した1569年にはほぼ完成。
◎金箔瓦の出土範囲から、金箔瓦建物の位置が今回の池の上部であることが特定できた。

 

<発掘調査成果のコメント>

○中井 均(なかい ひとし)[日本城郭史]

  滋賀県立大学 教授

  史跡岐阜城跡整備委員会 委員長

●織田信長の安土城や、豊臣秀吉の名護屋城でも築城途中の計画変更は発掘調査によって確認されているが、今回の岐阜城のような大規模なものではない。平坦面を確保するためにこれほどの整地をおこなった事例は他に例を見ない

●さらにその造成は単純な盛土ではなく、排水のために礫を敷くなど計算された整地であったことは注目してよい。

●さらにこうした当初の計画を変更してまで造成した平坦面は金箔瓦を施した御殿を造営するためのものであったことは疑いない。その御殿にはフロイスの記録によれば2階に奥方の部屋があったことが記されており、それは姫の部屋であった可能性が大である。

信長が当初計画を変更してまでも濃姫のために御殿を造営したと考えられる。 このように歴史を極めて身近に感じさせてくれたのも今回の調査の大きな成果と言ってよいだろう。

○仲 隆裕 氏(なか たかひろ)[日本庭園史]

  京都造形芸術大学 教授

  史跡岐阜城跡整備専門委員会 委員

●今回見つかった庭園は、岩島のある池泉庭園で、これまで信長居館で見つかっている屈曲する池とは異なり、方形の池(方地)であったとみられる。

●巨石の上方には滝石組みがあり、巨石に向かって水を流していたようである。ただし、廃絶時に岩が焼けていることから、常時、池に水はなく、お客が来たとき、あるいは雨の日など、限定的に水を流していたのではないか。

●敷地を拡張した後に造られた庭であることから、信長居館の中で最後につくられた庭園である可能性が考えられる。