平成19年度より第4次調査が始まり、今年度で3年目になります。
今年度は過去の調査成果から、
重要な施設があると考えられる槻谷(けやきだに)の東奥部分(B地区)の調査を行ってきました。
B地区は、下からBⅠ・BⅡ・BⅢ区の3つの地区にわけられます。
今回見つかった遺構は、織田信長が入城した1567年(永禄10年)から岐阜城が廃城になる1600年(慶長5)までの時期と考えられます。

【BⅠ区】
一番下のBⅠ区では、 昨年度に見つかった南側石垣のつづき、東側の石垣と南と東側の石垣のコーナーが見つかりました。
どちらの石垣の表面も火災によって赤く変色しています。 石垣の前には焼土(焼けた壁土)が堆積しています。火災は1600年 (慶長5)
の関ヶ原の合戦の前哨戦の時のものと考えられます。
(上:南と東側の石垣のコーナー、下:東側の石垣)


【BⅡ区】
二番目の平坦地では、昨年度と同様、水路や建物の礎石、石垣が見つかりました。
(上:排水施設と礎石、下:石垣) 

【BⅢ区】
一番奥の空間では、池と円形の石組み(水溜め状遺構)
が一体となった園池遺構が見つかりました。水溜め状遺構は手水(ちょうず)のような施設であったと考えられます。
隣には池があり、石組みで護岸され、池底には白い砂と川原石を敷いてあります。
南側の岩盤をつたった水が水溜め遺構に集められ、そこから溢れ出た水が池へと流れ出し、
北側の谷川へと排水されるような仕掛けであったと考えられます。
【園池遺構発見の意義】
園池遺構一帯は、
水溜め状遺構及び池の構造、立地などから室町将軍邸の庭(唐物飾りの茶座敷の庭)の系譜につながる可能性があり、
日本庭園史の中で大変貴重な資料となると考えらえられます。と同時に、元来革新的なイメージが強い織田信長ですが、
岐阜時代において、室町将軍家の伝統や権威を継承しようとした一面があったことが遺構から見てとることができます。
(上:BⅢ区全景 下:園池遺構)


【谷川】
B地区の北側を流れる谷川の南斜面には、1~2.
5mの巨石を用いた石組みが護岸として築かれています。
BⅢ区ではこれらの巨石石組みと園池遺構が一体のものとして造られていることが確認されました。
石組みは東西70mほどの雄大なものになる可能性があります。


2月27日(土)の現地公開には多数の皆様にご参加いただきました。
ありがとうございました。
