2007年07月 アーカイブ

調査日誌 7月31日

1区では北側の近代の焼物を含む整地土を掘り下げていきました。西側の溝のラインはみえますが、東側はまだわかりません。 2時期のうち新しい溝は幅が50~60cmぐらいなので、見えるはずなのですが・・・明日再挑戦します。

午後からは関係者数人で溝の堆積の検討をしました。結果的には、中央から北側あたりには、古い溝(SD-1古)と新しい溝(SD- 1新)の間にモノを廃棄した穴があるのではないかという考えになりました。SD-1古と掘り穴は第2遺構面の遺構でSD- 1古→掘り穴という順番で埋まった後に、道路面の整地をし、そこに第1遺構面のSD-1新が作られる・・・

そうなると、SD-1古は斎藤期でSD-1新は信長期となり、大道は信長以前から存在したことになります。このことを検証するには、 それぞれの遺構の範囲とどちらが後に掘られたものか(切りあい関係)を明確にして、 それぞれの遺構の中の土器を調べてその年代を検証するといった作業が必要になります。

最近天気がいいので土が乾燥してきました。今日は水をまいてシートをかけ、明日、 少し部分的に掘り下げて土坑の範囲を探してみたいと思います。

また、一番深いところで見つかった第3遺構面の川原石ですが、一応堤防の中核部分の可能性を考えていたようですが、 詳しい方にみていただいたところ、構造上堤防と考えるのは難しいということでした。何でしょうか?また別の可能性を考えてみたいと思います。

川原石

 

川原石が出ていたときの様子。(今は手前側は埋まっています)西から見たところです。

 

 

 

 

2区ではさらに角礫の層を掘り下げましたが、先日出ていた川原石の砂岩円礫は角礫中にも見られることから、 混じっているだけということになりました。残念。

おそらく、山側に石垣があって、それがある時期に崩されてその裏側に詰められていた石(裏込石)が流れ出たのではないかと思われます。 さらに明日も掘り下げていきます。

 

 

リンクを修正しました。

右のリンクにある「岐阜市教育文化振興事業団」のリンク先を変更しました。事業団の一部門である「埋蔵文化財調査事務所」 に直接飛ぶようになります。

今回の発掘調査は岐阜市教育委員会社会教育室と埋蔵文化財調査事務所が協力して行っています。 埋蔵文化財調査事務所では岐阜公園以外でも市内の発掘調査を行っています。現在調査中の遺跡についてはHPをご覧ください。

また資料集のコーナーでは、一昨年の岐阜城千畳敷遺跡(信長居館跡)の現地公開資料をダウンロードすることもできます。

 

岐阜公園イルミネーションが始まりました

7月29日(日)より8月25日(土)まで、岐阜公園でイルミネーションが開催されています。 今日は、早田太鼓の演奏などのオープニングセレモニーのあと、点灯のカウントダウンがありました。

発掘調査も同じ岐阜公園で実施しているため、少しイルミネーションの参加をさせていただきました。 ライトアップで夜間でも調査成果の案内板を見ることができます。

現場はさすがにシートをかけていますが(乾燥すると土の色がわからなくなりますし、雨が降ると現場がグチャグチャになるので、 作業時間以外はシートで保護しております。)、その上から、発掘で見つかった戦国の「大道」側溝をチューブライトで表示!

ささやかなイルミネーションですが、おそらくこんなことをした発掘現場は他にないのではないでしょうか。 夜の岐阜公園へもぜひ足をお運びください。

7.29 011

 

ボランティアの皆さんが暑い中、準備をしてこられました。

昨年は期間中に15万人を超す来場者があったそうです。

 

 


 

7.29 002

 

 

現場終了後の様子、ブルーシートで殺風景です。

 

 

 

 

7.29 014

 

イルミネーションで表現された大道側溝ライン。少し幻想的?です。

 

 

 

 

 

調査日誌 7月29日 2時期の側溝

 本日は1区の調査を行いました。

北側では石垣の写真撮影を行った後、断面実測を行いました。

また石垣をはずし終わったところでは、近代の整地土を掘り下げ、溝の検出をいきます。 夕方には溝の西側のラインが部分的に見えてきました。

今日までにゴミ穴や一部掘った溝の断面を検討したのですが、どうやら「大道」の側溝は二時期あるようです。 大きい溝と小さい溝が重なっているようで小さい溝は幅50~60cmぐらい、大きいほうは幅90cm以上でこの溝が埋まった後、 小さい溝が掘られているようです。

 どちらも焼土で埋まっています。それぞれの溝はいつ埋まったのか、方向は違うのかなど新たな課題も出てきましたが、 部分的に掘って断面を観察しながら答えを出していきたいと思います。

注:土層のラインは検討中のため変わるかもしれません。午後からは光線の関係で土の色が非常に見にくいのです・・・ 言い訳するようですが(^_^;)

 

7.29 028 

溝の断面(北側)

右側が小さい溝、下が大きい溝です。大きい溝が埋まった後、小さい溝が掘られています。

 

 

 

 

溝北側断面

 

溝の断面(中央)

右が小さい溝、左が大きい溝です。北側断面と違って、焼土があまり入っていません。

 

 

 

調査日誌7月28日 山で川原石?

2区今日の調査は2区のみ行いました。

 中央部にみえたガサガサの角礫層からガラス片が出てきたので、この礫層は新しい時期のものであることがわかりました。 そこで徐々に石をはずしていくと5cmから10cm下で丸い川原石のような石(直径10cm前後)が見えました。

 ここは山のふもとで川原石が自然に落ちている場所ではありません。と、いうことは人為的に持ち込まれたものになります。 ふと頭をよぎるのはフロイスの「日本史」に書かれた庭園の記述・ ・・
 しかし、あわててはいけません。その石が戦国時代の地面にのっているものかどうか確認する必要があります。

明日は1区のみの調査になりますので、来週さらに確認を行っていきます。

なお、この発掘調査では担当者が2名いるのですが、夏休み期間中は土・日を交代勤務にしております。 人数の関係もあって1区か2区どちらか片方のみで調査を行っておりますのでご了承ください。今日はブログ担当者お休みのため、 電話で打ち合わせした情報を元に書いております。

明日は、1区の「大道」側溝を平面的に確認すべく、戦国時代の面まで掘り下げていきます。

 

 

 

調査日誌 7月27日

今日、東海地方が梅雨明けしました。いよいよ夏本番という感じです。

1区では、前日実測した石垣の解体を行いました。ただ北側では解体した石垣より一段階古い石垣が出てきたため、 再び写真撮影と実測する必要が出てきました。古いといってもガラスや新しい焼き物が混じっているので近代のものです。

北側では近代石垣と戦っていますが、中央から南側では戦国時代の遺構面を目指して、 直上にのっている土をいよいよ掘り下げをはじめました。

南側には炭・焼土交じりの土が残っており、これがおそらく「大道」側溝の埋土と同じ性格の火災後の整地の土と考えています。 厚さ10cmから15cmほどでしょうか。戦国時代の「かわらけ」という素焼きの土器(土師器)の破片が多く混じっています。 一部に炭化した穀物の粒がまとまって見られたので写真と位置を記録したあと土ごと取り上げました。米粒のようですが、 詳細は分析してみたいと思います。

炭化穀粒

 

一定範囲にしかないのですが、柱穴などの掘り穴の中に入っているのではなく、 整地の土に混じっている感じです。取り上げたあと、 遺構の中でないことを再度確認しました。

 

 


 


 

 2区は壁際を一部掘り下げて土の堆積の確認をしました。結果、西側の石は新しい時期の堆積であることが確認できました。

同様に山側(東側)でも一部掘り下げた結果、30cm下で桟瓦(断面が「へ」の字の瓦)が出てきたので、 そこまでは掘り下げられることがわかりました。

出てきた桟瓦はおそらく明治時代ごろのものではないかと思われます。

7.27  025

 

 

 

 

 

 

 

 

 

調査日誌 7月26日

実測風景今日の1区は調査員1名、補助員さん1名の体制。石垣 の解体を途中で止めて、 断面の実測作業を行いました。

しかし、そこへ突然の雨・・・今日は降ったり止んだりと中途半端な天気で困りました。

 

 

 

 

遺構検出また本日は「大道」側溝の遺構検出作業をしました。 白い線を引いてあるところが溝の西側のラインです。まだ一部近代の土が残っているので、明日以降に掘り下げていきます。

 

 

 

 

 

2区は前日に引き続き、表土を掘り下げました。またその下に土がどのように堆積しているかを調べるために、 一部深堀する範囲を決めて掘り始めました。(これを「断割りを入れる」ともいいます。)

 

調査日誌 7月25日

今日は午前中1区の調査をお休みしました。その間何をしていたかというと、市役所内で明治時代の地図の調査をしておりました。 今より少し前の時代の「大道」の様子を知る重要な資料です。このころの道路は今よりも西に振っているようで、どちらかといえば「大道」 のラインに近いようです。

午後からは、近代石垣をはずす作業をしました。

2区1 0042区は表土を取り除く作業を、昨日に引き続き行っています。 半分ぐらい終わりました。 山側は土がやや厚く堆積しているみたいです。
こちらの調査区は日陰ですが、木の根っこが多く、なかなか思うように進まないところもあります。

 

今日は午後からFMわっちの番組「とっておき岐阜情報 聴いてミント」の収録がありました。
放送日は8月3日8:30~、17:00~の2回、10分間ということです。

調査日誌 7月24日

今日も快晴でした。このまま梅雨明けでしょうか。

第1区では日曜日に実測した近代石垣の図面に高さの数値を入れる作業をしました。業界用語で言う「レベル入れ」というやつです。 平面図にレベルで図った数字を入れていきます。こうやって高さも記録するんですね。 地面を掘っただけの柱穴なら穴の上を4点ほどと穴の底を測るのですが、石垣の場合は時間がかかります。

レベル入れの後、石垣をはずし始めました。明日には完了すると思います。

第2区は、今日が実際の初日です。表面の土(表土)を掘る作業を行いました。調査前はなんでもなかった場所が、 だんだん発掘調査地区らしくなっていきます。

ごめんなさい。今日は忙しくて写真を撮ることができませんでした。明日には載せますのでご容赦ください。

 

調査日誌 7月22日

 昨晩まで60%だった降水確率も今朝になると10%に下がっていました。久しぶりに暑い中での作業です。

 今日も第1区のみの調査でした。まず、調査区にたまった雨水を排水した後、調査区北側にある近代(明治時代以降)の石垣の写真撮影、 実測作業を行いました。

 この石垣は住宅地に盛土をした時に土留めとして作られたものです。拡張前の6月の段階から見つかっていて、ごらんになっている人に 「戦国時代の石垣ですか?」とよく聞かれました。そのつど「残念ですが、これは明治時代以降のもので・・・」と説明しておりました。

 この石垣の方向は今の道路と比べて北側を大分西に振っており、少し前の土地区画の方向性を示していると考えられます。
 戦国時代の側溝、明治以降の石垣、現代の道路、それぞれ微妙に方向がずれているのですが、その様子を図面として記録に残す作業を行います。

実はこの石垣は戦国の「大道」側溝のライン上に位置します。この下に溝の続きが出てくるはずです。記録が終わった後石垣をはずして、 掘り下げて行く予定です。

明日(月曜日)は現場作業をお休みします。

 

1区追加2 016

 

 

第1区の作業風景(南から)

近代石垣は北端で見つかっています。

 

 

 

 

1区追加2 004

 

 

 

近代の石垣(南から)

 

 

 

 

1区追加2 017

 

石垣の実測風景

石垣手前に張った糸を基準に、縦○cm、横○cmというように測って、真横からみた様子を図面に書きます。

右奥にあるのは「レベル」という高さを測る機械です。

 

調査日誌 7月21日休止

本日は、雨天のため、現場をお休みさせていただきます。

でも本当に7月に入ってからよく降りますね。けっこう雨には泣かされました。

明日も天気が悪いようですので、調査ができるかどうか心配です。

雨天による中止のお知らせについて

発掘調査は雨が降ると基本的に作業ができません。 一日作業を中止する場合は朝の9時ごろまでにこのブログでお知らせします。

途中で雨が降ってきた場合には、書き込めないこともあるかもしれませんがご容赦ください。

雨が降っても発掘調査案内所は開いております。(7/21~8/31は月曜日休み) 開設時間は発掘作業と同じく9時から16時です。

パネルや映像による調査成果紹介を行っていますので、お気軽にお立ち寄りください。

1区拡張1 009

 

 

 

発掘調査案内所の外観

重厚な看板と案内所の「のぼり」が目印です。

 

 

 

1区拡張1 010

 

 

 

案内所のパネル展示

信長居館や過去の発掘調査成果について紹介しています。 一部はこのブログにも掲載しています。

 

 

1区拡張1 012

 

 

発掘に使う道具の展示コーナー

展示するまでもないありふれた道具ですが、意外と面白い使い方をするものもあるんです。

たまに現場で必要になると棚から姿を消します。

 

 

 

 

調査日誌 7月20日

1区拡張1 001本日から第1区追加調査の開始です 。

まず、重機で掘ったあとをきれいにして、新しい時代の土から掘り下げます。今日は、近代の整地の土や灰・ 炭などが捨てられたゴミ穴を掘りました。

 でもただゴミ穴を掘るだけではありません。深いゴミ穴は戦国時代の地面より深いものもあり、そういうところでは断面に遺構 (柱穴や溝など)が引っかかるところがあります。

 実は戦国時代の大道側溝と考えられる溝も、このようなゴミ穴の壁で最初に見つけました。穴に詰まった土を取り除くと、 炭や焼けた土のまじった落ち込みが確認できたのです。

 ゴミ穴で遺跡が壊されているのは残念ですが、こういうところも調査します。

 なお、今日は作業員さんが少ないため、第2区の調査はお休みしました。

明日も第1区のみ調査を行います。

 

たてふだ

 

第1区のフェンスとのぼり

普通の発掘現場にはありえないデザインです。

立て札には調査の概要を書いています。

 

 

 

 

 

撹乱

 

ゴミ穴を掘ったところ

壁をよく見ると下の土層の色の違いがわかります。

 

 

 

 

 

 

調査日誌 7月19日

みなさま、こんにちは。やっとHPが完成しました。

このページでは、現在岐阜公園内で行っている発掘調査の様子を日々お伝えしていく予定です。毎日とまではいかないかもしれませんが、 できるだけ発掘調査の現場の様子をリアルタイムでお知らせしてみたいと思いますので、よろしくお願いします。

 

本日の調査 曇り時々雨

1区埋戻・拡張 021 1区では見つかった「大道」側溝をさらに広範囲に確認するため、 重機で明治時代以降の土を掘り下げ、調査区を広げました。

仁木先生のコメントにあるように戦国時代の道路面が確認できたらと考えています。明日から壁や床をきれいにして、 人力で掘り下げていきます。

 

 

 

 2区ではフェンスを設置するなど、準備作業を行いました。

ここは、いままで調査されたことがないので、どれくらい土が堆積しているかわかりません。 そのため地表面から人の手で少しずつ掘り下げていきます。

1区の調査期間を延長したので、平日は2班に分かれて1,2区を同時に調査していく予定です。土・日など人が少ないときには、 片側の調査区しか作業をしていない場合もありますがご容赦ください。2区

 

 

 

ロープウェー乗り場の裏側からみた2区 家紋入りのフェンスがチラリと見えています。

 

 

 

2区調査区設定

 

 

 

 

東(山側)からみた2区の調査前の状況 

幅2m、長さ15m程度の細長い調査区です。 

 

これまでの発掘調査の位置です

調査位置図これまでの発掘調査の位置です。

1次調査 

  ロープウェーの南側
  (現在整備されています)

 

2次調査  

  加藤栄三・東一記念美術館

 

3次調査  

  庭園「信長の庭」の位置

 

平成17年度試掘  整備範囲の南西部

 

平成18年度試掘  整備範囲の西側

 

平成19年度に行う調査は、これまでまったく手をつけていなかった部分になります。

 

大阪市立大学大学院 仁木宏先生から1区の調査成果についてコメントをいただきました

大阪市立大学大学院文学研究科 仁木宏准教授(日本中世史・都市史) からコメントをいただきました。先生には信長居館発掘調査専門委員会の委員もお願いしております。

 

 今回の発見は、 信長時代の城下町の道路がはじめて確認されたという点で画期的な成果である。
 これまで、岐阜城下においては、家臣団屋敷は部分的ながら確認されていた(大宮町北街区(バス駐車場)での試掘調査)が、道路が (側溝の部分が中心とはいえ)確認されたのは初めてである。
 しかもこの道は、「濃州厚見郡岐阜図」に描かれている点が興味深い。
 同図によると、この「大道」は、信長居館が立地する山側地区と城下町側を区画する道路である。おそらく山側には、信長の一族・ 重臣の屋敷が建ちならんでおり、城下町側には、それより一ランク下がる家臣の屋敷があったと推測される。すなわち、 この道路が屋敷のランクづけを目に見える形で示す装置の役割をはたしていた可能性があるのである。
 また絵図でこの道が直線に描かれている点にも注目する必要がある。現地は城下町の建設以前、かなり複雑な自然地形であったはずである。 そこに直線道路を設定することによって、自然条件を克服してみせる権力の偉大さを示す意図があったのではないかと思われる。ただ、本当に、 絵図で描かれたように道路が直線状かどうかは今後の調査を待たねばならない。
 さらに、この道路が、ルイス・フロイスが論及している道にあたる可能性もある。
 フロイスは、「3階と4階の見晴台からは町の全体が見えるが、そこはすべて武将や主だった貴人が所有する新築の家々だった。 宮殿を出たところの非常に長い通りは、家臣や奉公人の家のみで、他の人のは含まれていない。」と述べている。この「通り」 が今回発見された道路かもしれない。(注)
 フロイスの表現からは、今回発見の南北道とは異なる、東西方向の「通り」の可能性もあるが、万一、これがその道であるとなれば、 フロイスも注目する「特別な通り」であったことになる。
 これらのことを確かめる意味でも、道路面がどうなっていたのか知りたい。
 城下の主要道であれば、小石を敷きつめていたのではないかと思うが、あるいは石畳にするなどして舗装していた可能性もある。 戦国時代の城下町の道路面が確認されることは全国的にみても一乗谷や小牧など数例しかないのではないか。 西側の屋敷と道路の間に何があったのか。土塀や土塁か、板塀や柵かも重要である。
 現段階で確認されているのは、道路のしかも側溝部分にすぎない。最初に道路を設定したのも信長ではなく斎藤道三の可能性もある。
 だが、今回の発掘を契機として、信長が城下町をどのような都市プランで設計していたのか、研究が進んでゆくだろう。また今後も、 信長居館だけでなく、機会をとらえて城下町部分についても積極的な調査が進展するよう期待したい。
 今回の発掘は岐阜公園の再整備にともなうものである。遺構をいかした展示スペースなどをつくるなど、 岐阜公園を訪れた人が戦国時代を少しでも感じられるような工夫を望みたい。


(注)高木洋「ルイス・フロイスの岐阜探訪―1569年7月12日付書簡(アルカラ版)全訳―」『岐阜市歴史博物館研究紀要17』 2005年


 

1区の調査成果  戦国時代のメインストリートの一部を確認!

信長居館発掘調査 1区(武家屋敷地) の調査成果

6月12日から調査を行っていた第1区は、戦国時代の武家屋敷地があったと考えられる地点です。近現代の整地土を掘り下げていくと、 戦国時代の溝や建物跡が出てきました。江戸時代は畑地で、人は住んでいなかったようです。

調査区は近現代のゴミ穴が多く、戦国時代の地面が残っていない場所もありましたが、重要な成果として戦国時代の「大道」(おおみち) と考えられる南北方向の道路の側溝と武家屋敷地を区画する東西方向の溝を確認することが出来ました。

 

南北の直線道路「大道」

江戸時代前期の承応3年(1654)に描かれた絵図「濃州厚見郡岐阜図(のうしゅうあつみぐんぎふず)」(名古屋市蓬左文庫蔵)には、 調査区のすぐ東側に南北の直線道路が走っている様子が描かれています。江戸時代の検地帳などをみるとこの道は「大道」 と呼ばれていたようです。現在も岐阜市歴史博物館周辺には「千畳敷下大道西」という字名が残っています。

 

「大道」発見の意義

江戸時代の絵図に描かれている道路が戦国時代までさかのぼる可能性が高くなりました。その場合、 現在の岐阜公園内を南北に通る道路のルーツは、戦国時代までさかのぼることになります。

戦国時代の岐阜城下町の土地区画が発掘調査ではじめて確認できた点でも、その意義は大きいといえます。

 

第1区で見つかった遺構

 第1遺構面 斎藤期から1600年ぐらいまでの時期

・    「大道」(おおみち)と考えられる南北方向の道路の側溝(幅60cm、深さ30cm) を確認。

・    武家屋敷地を区画する東西方向の溝を確認。

・    建物の柱穴や掘り穴を確認

 

※ゴミ穴の断面や底の部分では、さらに古い時期の遺構(第2、3遺構面)も見つかっています。

第2遺構面 斎藤氏時代、それ以前か?

・    建物の柱穴や掘り穴を確認。

第3遺構面 戦国時代かそれ以前

・    川原石を使った石組み遺構の一部を確認。

 

遺構検出状況(南から)

 

遺構検出状況(南から)

白線で囲った部分が遺構。大きな穴は近現代の撹乱です。

手前1/3も近年の撹乱で遺構面が削られ、第3遺構面の遺構が見えています。

 

 

 

検出遺構2

 

  

1区で見つかった遺構(第1遺構面)(北西から撮影)


 

 

 

 

検出遺構

 

 

 

 

南西から撮影

 

 

 

イメージ図

 

 

 

 

岐阜公園周辺のイメージイラストです。イラストを左右(実際には左が北)に走る道路が「大道」です。

 

発掘調査の目的と今年度の調査位置

 岐阜公園は織田信長が館を構えた地として知られています。 ちょうどいまから440年前、 信長は美濃を治めていた斎藤道三の孫、龍興を追放し、みずからの本拠をこの地に移したのでした。 それから2年後の永禄12 (1569)年、岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、その記録の中で信長の館を「宮殿」と称し、 華麗な内部の様子を紹介しています。信長居館跡の入口部分は発掘調査の結果復元整備され、現在見学することができますが、 館の姿や配置など居館の多くの部分はまだ謎のままです。

今回、 建物の位置や構造を調べる発掘調査を開始しました。発掘調査は一般公開とし、来園者のみなさんに見学していただけるようにします。 また公園北側に設けた発掘調査案内所(旧信長楽市)やホームページ等で調査成果を紹介するなど、随時情報発信してまいります。 発掘の見学とともに岐阜公園を散策することで、その歴史的魅力を再発見できるのではないでしょうか。

岐阜城下町遺跡、 岐阜城千畳敷遺跡 (信長居館跡)において、これまでに発掘されたことがない地点を中心に調査を行います。 写真、 図面及び周辺の地形測量などにより記録を作成しつつ、戦国時代の建物跡の残り具合やその深さなどを調べます。

 

 


 

第1区 発掘調査案内所前 (6月中旬~7月中旬)

       家臣団の屋敷地と考えられる地点。

 「大道」 側溝部分については8月中旬まで調査を継続します。

 

第2区 ロープウェー山麓駅北側 (7月下旬~9月下旬)

       居館本体の一部など、重要な建物が想定される地点。

 

第3区 槻谷 (けやきだに)平坦地(10月上旬~12月上旬)

       ルイス・フロイスの記述にある〔茶の座敷〕の説がある地点。位置図.

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3次調査―美濃攻略の爪あと―

1997年、 岐阜公園の山すそに庭園「信長の庭」が造られることになり、調査が行われました。

戦国時代では、 信長の稲葉山城攻略時の火災により変色した多量の陶磁器や意図的に埋めた打刀がみつかるなど、攻城の痕跡がうかがえます。他にも石垣や階段、 井戸などが確認されました。石組井戸は一部を現地に復元しています。 

 鎌倉・室町時代では梵鐘を作った跡や「大寺」と書かれた墨書土器、石積、 階段などが出土しました。

 天文8 (1539) 年、斎藤道三によって伊奈波神社が丸山(金華山トンネルの入口部分の山) あたりから現在の場所に移されたという伝承と合わせて考えると、 もともと岐阜公園一帯には伊奈波神社に関連する寺院があったようです。

戦国時代の井戸

 

 

 

戦国時代の石組井戸

 

 

井戸の底

 

 

 

井戸を上から見たところ

 

 

SJ3SS1

 

 

戦国時代の通路と石垣

山側を石垣で区画した通路が、現在の登山道「瞑想の小道」の登り口の延長部分で見つかりました。

 

 

SJ3刀出土状況

SJ3刀

 

 

刀身は鞘に納められ、差表(腰に 刀を差したときの表側)を上にした状態で出土しました。柄の鮫皮、 鞘の黒漆塗りは戦国時代の一般的な打刀拵のスタイルです。出土状況からみて意図的に埋納したものと考えられます。

 

SJ3鋳型撞座

SJ3鋳型

 

梵鐘(ぼんしょう)の鋳型

 

 

 

 

SJ3南室町遺構群

 

 

室町時代の石積み遺構

 

 

 

SJ3Ⅳ2層海外 SJ3Ⅳ2層国内

 

 

 

 

 

 

信長入城後(1567年以降)に行われた造成の盛土から出土した陶磁器。稲葉山城攻落時とみられる火災で一部変色しています。

 左:中国産 右:国産

2次調査―戦国時代の台所?―

ロープウェー乗場の北側には豊かな自然に囲まれた平坦地がありますが、この地に岐阜市出身の加藤栄三・ 東一両画伯を記念して美術館が造られることになりました。かつて野外音楽堂があった場所です。1988年、 この地で岐阜城千畳敷遺跡の 2次調査が始まりました。

調査では戦国時代のカマドや鎌倉、室町時代の地鎮遺構などが姿を現し、 予想もしなかった6~7世紀の古墳もみつかりました。調査結果はこの地が古くから、人々に利用され続けていたことを示してくれたのです。

 戦国時代のカマドは石囲いで3つありました。床には10cmほど炭化物の層があり、 使わなくなる時に儀式を行った形跡が残されていました。カマドの存在はこの場所が台所であったことを示すものです。 信長の食事を作っていたのでしょうか?

 カマドは現在、美術館内に移築復元されて展示公開されています。

カマド・石敷

 

 

 

カマドと石敷き遺構

 

 

2基のカマド

 

 

 

2基のカマド 手前が焚き口

 

 

地鎮遺構

 

 

土師器の皿の中に銅銭5枚が入っており、さらにその内外に炭化した穀物が集中して見つかりました。 鎌倉~室町時代の地鎮めの儀式に使われたものと考えられます。

 

古墳

 

 

2次調査では6~7世紀の横穴式石室の円墳も見つかりました。石室の全長は7.2mで主にチャートを石材に使っていました。

1次調査 -巨石通路の発見-

1984年、 岐阜市制100年記念事業として岐阜公園内に信長居館を再現する計画が持ち上がりました。 その再現にあたり発掘調査による建物跡などの確認が必要となり、 その伝承地である千畳敷で初めて調査が実施されることになったのです。市制100年を迎える4年前のことです。

 同年1112日発掘調査が開始され、 9日後には初めて板状の巨石が出土します。それから約2年半の間調査が進められ、 他に例をみない巨石を並べた大規模な虎口や通路が姿を現しました。それはフロイスの記述にある 「おどろくべき大きさの裁断されない石の壁」、「はなはだ長き石の塀」を彷彿とさせるに足るものでした。

結果として居館本体はわかりませんでしたが、壮大な石の城造りを試みた信長の先進性をうかがうことができたのです。 この虎口部分は復元整備され、当時の様子を垣間見ることができます。

SJ1遺跡遠景(西から)

SJ1調査区全景(西から)

 

 

 

 

 

 

左:岐阜公園を西から見たところ 右:1次調査の空撮写真(西から)

 

  

SJ1SS1

 

 

巨石列と通路
(画像をクリックすると拡大します)


 

 

巨石列

 

 

 

巨石列

 

 

巨石列の裏込め

 

通路に使われている巨石を横から見た写真です。大きな板状の石を立て並べ、裏側に石(裏込め石)を詰めて造っている様子がわかります。

 

 

 

SJ1上層一括遺物

 

出土した土器・陶磁器

 

 

 

 

ルイス・フロイスがみた信長居館3

3ruisufuroisu 清々しさ、美しさ、清潔さにおいて、私はこの宮殿と比べられるものをみたことがありません。

宮殿の中には、 技巧を凝らして丁寧に作られている部屋や廊下、前廊、厠(トイレ)が数多くあったと記憶しています。普段は誰も入ることなく、 私たちと一緒に入った佐久間信盛殿、柴田勝家殿も宮殿内を見るのは初めてだったとおっしゃっていました。

 

 

一階は絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋があり、 その部屋の周囲には、珍しい前廊が走っています。前廊の壁は、金地に中国や日本の物語の絵を描いたもので一面満されていました。

前廊の外には、 庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、他の場所にも、宮殿の用に思いのまま使用できる泉があります。

 

二階さらに美麗な内装を施した婦人部屋があり、 その周囲を取り囲む前廊は市(まち)の側にも山の側にも中国製の金襴の幕で覆われています。そこでは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、 きわめて新鮮な水が満ちた他の池の中では鳥類のあらゆる美を見ることができます。

 

 三階は山と同じ高さで、 一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、 静寂で非常に優雅であります。三、四階の前廊からは全市を展望することができます。

 

松田毅一・川崎桃太訳

「完訳フロイス 日本史2 織田信長篇2」 中公文庫2000 より引用

ルイス・フロイスがみた信長居館2

3ruisufuroisu

 

私が信長に出会ったのは、彼 が造った新しい宮殿を見に行く途中のことです。 いつ着いたのかとたずねられ、 私の来訪を喜んでくれた様子でした。その後10人前後で宮殿に向かったのです。

 

 

「宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。驚くベき大きさの裁断されない石の壁がそれを取り囲んでいます。 第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴しい材木でできた劇場ふうの建物があり、その両側には、 二本の大きい影を投ずる果樹があります。広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、 そこから市の一部が望まれます。」

松田毅一・川崎桃太訳

「完訳フロイス 日本史2 織田信長篇2」 中公文庫2000 より引用

調査区と発掘調査案内所の位置

第1区 発掘調査案内所前 (6月中旬~7月中旬)

       家臣団の屋敷地と考えられる地点。

 「大道」 側溝部分については8月中旬まで調査を継続します。

 

第2区 ロープウェー山麓駅北側 (7月下旬~9月下旬)

       居館本体の一部など、重要な建物が想定される地点。

 

第3区 槻谷 (けやきだに)平坦地(10月上旬~12月上旬)

       ルイス・フロイスの記述にある〔茶の座敷〕の説がある地点。位置図.

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルイス・フロイスがみた信長居館1

 

「私たちは岐阜の市に至りましたが、人々の語るところによれば、 八千ないし一万の人口を数えるとのことでした。

 取引きや用務で往来する人々がおびただしく、 バビロンの混雑を思わせるほどで、塩を積んだ多くの馬や反物その他の品物を抱えた商人たちが諸国から集まっていました。」

 

松田毅一・川崎桃太訳

「完訳フロイス 日本史2 織田信長篇2」 中公文庫2000 より引用

 

3ruisufuroisu

 

私の名前はルイス・フロイス、ポルトガルから来たイエズス会の宣教師デス。わたしはかつて織田信長公にキリシタンの支援をしていただくため、 岐阜を訪れました。信長の岐阜入城から2年後、 1569年6月のことです。  

 ここではみなさまに、私が書き残した手紙や著書『日本史』をもとに、そのとき訪れた信長居館の様子を紹介したいと思いマス。

 

公園穴場スポット

現在作成中です。随時更新していきますのでお楽しみに。

岐阜公園へのアクセス

バス  
JR岐阜駅・名鉄岐阜駅からいずれも岐阜バスで長良方面行き乗車(約15分) 「岐阜公園・歴史博物館前」下車すぐ


駐車場
岐阜公園堤外駐車場をご利用ください。
 (1回300円、1時間以内は無料)  

地図