大阪市立大学大学院 仁木宏先生から1区の調査成果についてコメントをいただきました

大阪市立大学大学院文学研究科 仁木宏准教授(日本中世史・都市史) からコメントをいただきました。先生には信長居館発掘調査専門委員会の委員もお願いしております。

 

 今回の発見は、 信長時代の城下町の道路がはじめて確認されたという点で画期的な成果である。
 これまで、岐阜城下においては、家臣団屋敷は部分的ながら確認されていた(大宮町北街区(バス駐車場)での試掘調査)が、道路が (側溝の部分が中心とはいえ)確認されたのは初めてである。
 しかもこの道は、「濃州厚見郡岐阜図」に描かれている点が興味深い。
 同図によると、この「大道」は、信長居館が立地する山側地区と城下町側を区画する道路である。おそらく山側には、信長の一族・ 重臣の屋敷が建ちならんでおり、城下町側には、それより一ランク下がる家臣の屋敷があったと推測される。すなわち、 この道路が屋敷のランクづけを目に見える形で示す装置の役割をはたしていた可能性があるのである。
 また絵図でこの道が直線に描かれている点にも注目する必要がある。現地は城下町の建設以前、かなり複雑な自然地形であったはずである。 そこに直線道路を設定することによって、自然条件を克服してみせる権力の偉大さを示す意図があったのではないかと思われる。ただ、本当に、 絵図で描かれたように道路が直線状かどうかは今後の調査を待たねばならない。
 さらに、この道路が、ルイス・フロイスが論及している道にあたる可能性もある。
 フロイスは、「3階と4階の見晴台からは町の全体が見えるが、そこはすべて武将や主だった貴人が所有する新築の家々だった。 宮殿を出たところの非常に長い通りは、家臣や奉公人の家のみで、他の人のは含まれていない。」と述べている。この「通り」 が今回発見された道路かもしれない。(注)
 フロイスの表現からは、今回発見の南北道とは異なる、東西方向の「通り」の可能性もあるが、万一、これがその道であるとなれば、 フロイスも注目する「特別な通り」であったことになる。
 これらのことを確かめる意味でも、道路面がどうなっていたのか知りたい。
 城下の主要道であれば、小石を敷きつめていたのではないかと思うが、あるいは石畳にするなどして舗装していた可能性もある。 戦国時代の城下町の道路面が確認されることは全国的にみても一乗谷や小牧など数例しかないのではないか。 西側の屋敷と道路の間に何があったのか。土塀や土塁か、板塀や柵かも重要である。
 現段階で確認されているのは、道路のしかも側溝部分にすぎない。最初に道路を設定したのも信長ではなく斎藤道三の可能性もある。
 だが、今回の発掘を契機として、信長が城下町をどのような都市プランで設計していたのか、研究が進んでゆくだろう。また今後も、 信長居館だけでなく、機会をとらえて城下町部分についても積極的な調査が進展するよう期待したい。
 今回の発掘は岐阜公園の再整備にともなうものである。遺構をいかした展示スペースなどをつくるなど、 岐阜公園を訪れた人が戦国時代を少しでも感じられるような工夫を望みたい。


(注)高木洋「ルイス・フロイスの岐阜探訪―1569年7月12日付書簡(アルカラ版)全訳―」『岐阜市歴史博物館研究紀要17』 2005年