2007年10月31日
調査日誌 10月31日
昨日、今日は埋め戻し用の砂袋の作成、運搬を中心に作業を行いました。
現場作業は多くはできませんでしたが、3区東側のベルトはほぼ掘れました。同じように東側に石が多く出てくるのかと思ったら、 あまり石はなさそうです。明日以降、丁寧に掘り下げて、同一の面まで掘り下げていきたいと思います。
- 詳細記事
- 15:24
- in 1.TOP 最新情報 > 平成19年度
2007年10月31日
昨日、今日は埋め戻し用の砂袋の作成、運搬を中心に作業を行いました。
現場作業は多くはできませんでしたが、3区東側のベルトはほぼ掘れました。同じように東側に石が多く出てくるのかと思ったら、 あまり石はなさそうです。明日以降、丁寧に掘り下げて、同一の面まで掘り下げていきたいと思います。
2007年10月26日
本日は雨天のため、作業・現地公開を中止いたします。
案内所では出土した資料を見ていただくことができます。
今日は整理作業を行いやすいように、一部模様替えを行う予定です。
2007年10月24日
2007年10月23日
見つかったときは、「巨石列」 の石材である可能性が考えられました。巨石列とは信長居館の入口部分に見られるもので、石垣のように土留めをするためのものです。 それがある段階で動かされた可能性が考えられたのですが、周辺を細かく調べても、石の周りの土には掘り込みの跡は見られません。
戦国時代より後にこの石が動かされたのなら、地面に穴を掘って動かした痕跡があるはずなのですが、 そのような跡は見つかりませんでした。ということは、この石は少なくとも戦国時代にはこの状態であったことになります。
なお写真では大きい石の姿がかなり見えていますが、部分的に周りの土や穴を掘り下げた結果そのように見えるだけで、
本来は石の頭が露出する程度だったと思われます。
周りには州浜と考えられる石敷きがあります。地面から頭を出していたこの石も庭の一部として取り込まれていたのかもしれません。
2007年10月19日
本日は雨天のため、作業と現地公開を中止させていただきます。
ご了承ください。
土曜日はお休みさせていただきます。
あさって日曜日9時半から12時半には2区の現地公開、説明を行う予定です。
2007年10月18日
2区については先週木曜日に記者発表し、新聞・テレビ各社の報道があったかと思います。
信長期の庭園の可能性が高い遺構が見つかったわけですが、調査面積も少ないため、まだ庭園と断定するまではいたりません。ただ、これが、
庭園であるとするならば、信長の館に関係する庭がはじめて見つかったといえるかと思います。
実際には調査区で見つかった川原石の敷石が池などの水際に敷き詰めた 『州浜(すはま)』と呼ばれるものに相当する可能性があるわけですが、ぱっと見ただけではなかなかイメージがつかめません。
そこで不定期になりますが、改めて見つかった遺構を紹介してみたいと思います。
ちなみに現在の岐阜公園の池にある『州浜』です。
この庭は戦国時代をイメージして作られたもので、当時のものではありませんが、州浜の感じはわかっていただけるかと思います。
2007年10月17日
2区で見つかった庭園の可能性のある遺構ですが、
岐阜の信長居館の庭については、フロイスの手紙に以下のことが記されています。
・・・前廊の外に、庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、 その完全さは日本においてははなはだ稀有なものであります。それらの幾つかには1パルモの深さの池があり、その底には入念に選ばれた清らかな小石や目にも眩しい白砂があり、 その中には泳いでいる各種の美しい魚が多数おりました。 また池の中の巌の上に生えている各種の花卉や植物がありました。下の山麓にため池があって、そこから水が部屋に分流しています。 そこに美しい泉があり、他の場所にも、宮殿の用に思いのまま使用できる泉があります。・・・・
ルイス・フロイス『日本史』 松田毅一・川崎桃太 訳
2007年10月16日
3区では午前中のみの作業です。西端の川原石が出ている部分の清掃を行い、写真撮影を行いました。白線で引いている部分より上(西側) に粘土質の土が見られ、その部分に川原石が埋まっている感じです。粘土質の土の中には炭が混じっています。ただ、 年代を推定する材料となる遺物がありません。戦国時代のものである証拠がない状態です。また、精査をしながら、 部分的に調査区を広げて確認していきたいと思います。
東から撮影
午後は何をしたかというと、2区の埋め戻し用の砂袋の運搬を行いました。車で運べないところは人力でリレーしました。結構大変ですが、 この袋を敷き詰めた後に埋め戻しをすると遺構の保護もできますし、追加で調査するときもすぐに掘り返すことができます。
砂は少なめに入れたはずなんですが、中にはとても重いものも・・・
今日は午前中、2区の調査成果についてNHKの取材がありました。当日のお昼と夕方のニュースで流れるそうです。
2007年10月15日
昨日の日曜日には、2区の現場を公開して説明を行いました。公開時間は3時間ほどでしたが、多くの方が見学にきてくれました。
2区は平日のほかこれから毎週日曜日、9時半から12時半の午前中に公開を行います。 (11月18日まで)雨天の場合はお休みしますので、その際はブログでお知らせしたいと思います。
さて3区の調査ですが、東側(山側)で石がまとまって確認されています。一部は石が並んでいるようにも見えます。現在、 新しい時期の土を取り除きながら、石の輪郭を出している最中です。
西から撮影
また、調査区西端では、丸い川原石が出てきています。自然のものではなく、人為的に持ち込まれたものです。
2007年10月12日
新聞各社で2区の調査成果を報道していただいたおかげで、今日は多くの方が見学に来ていただけました。 2区は雨でお休みするとき以外は平日と日曜日に見ることができます。
さて、3区の掘り下げは大分メドがついてきました。3層としている赤褐色砂礫土の上まで掘り下げました。 壁際のサブトレンチで一部この土を掘りましたが、今のところかわらけの破片などが数点出ている程度で、 明らかに新しい遺物は含まれていないようです。
一番下の土が3層です。その上の土にはガラスなど新しいものが含まれています。
調査区東側では石が多く見られます。まだ新しい土があるので、石を動かさないように少しずつ掘り下げました。 大きめの石がいくつか出てきています。
2007年10月11日
仲隆裕(なか たかひろ)京都造形芸術大学教授(庭園史) のコメント
石列より南側には水が流れていたか、 池であった可能性があると考えられる。その場合、 石敷遺構の川原石は州浜の石で、 立て並べた石列は州浜の裾止め石に相当するとみられる。
部分的に石が集まっている場所は、景石や手水鉢の根石の可能性がある。
州浜(すはま) - 池の水際に敷き詰めた石敷き
景石(けいせき) - 日本庭園で、 風趣を添えるために所々に配した石
手水鉢(ちょうずばち) - 手を洗う水を入れておく鉢
今後の予定
庭園遺構である確証を得るとともに、 その範囲や平坦地全体の性格、構造を明らかにするため、次年度以降も調査を実施する予定です。
10月11日に2区の調査成果とその評価についての記者発表を行いました。
調査期間 7月19日~現在調査中
調査面積 約34㎡ (幅2m×15m +拡張部分幅1.2m×3m)
ロープウェー乗場と三重塔の間に位置する平坦地を調査しました。これまでにまったく調査が行われていない部分であるため、 重機を使わず地表面から人力による掘削により、掘り下げていきました。
表土の下にはチャートの角礫が山側から流れ込んだ形で厚く堆積していました。このような石は裏込め石(石垣や巨石列の裏側に詰められる石)
の可能性が高いため、石垣の存在が考えられましたが、調査した範囲では石垣の痕跡は確認できませんでした。戦国時代の遺構は、
この礫層のさらに下で確認しました。
調査成果
2時期の遺構面を確認しました。
○信長の岐阜入城以降の時期
(1567年~1600年)と考えられる遺構を確認
巨大な石 南北幅1.1m、東西幅1.7m。
石列 北西から南東方向に並ぶチャートの石列
(約2.5m分)
石敷遺構 砂岩の円礫(川原石)
を張ったもの
集石遺構 チャート、砂岩の集石
●石列と石敷遺構の周囲には粘土の層が堆積している。
●調査区西側1/3は後世の削平により地面が削られている。
遺構面が焼けている痕跡は確認できなかった。
礎石などは確認できなかったことから、建物が建っていたとは考えにくい。
○ 戦国時代の火災の痕跡、下層遺構(斎藤時代?)を確認
上層遺構の作られた地面の下には炭・焼土の層が確認できました。遺物などによる年代確定はできていませんが、 過去の発掘調査の状況などからみて、これは1567年(永禄10年)に信長が稲葉山城を攻略した際の火災の跡の可能性があります。 その下では一段階古い時期の礎石の可能性のある石などを部分的に確認しました。 上層遺構は火災の後につくられているところから、遺構の時期は1567年?以降1600年までと考えられます。
確認した遺構の評価について
今回確認した石列、 石敷遺構などは庭園の一部である可能性が高い
小牧山城の山麓の信長館推定地や安土城の山頂主郭部分では、これまでに庭園と呼べる遺構は確認されておらず、 もし今回の遺構が庭園の一部であるならば、初めて信長の庭園遺構が確認されたことになる。またポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著書 『日本史』には庭園に関する記述があり、その庭であった可能性もある。
白線より上が円礫を敷き詰めた部分。 これが池などの裾に敷かれた「州浜(すはま)」に相当すると考えられる。
東から見たところ
2007年10月10日
今日も土の色と、中に含まれている遺物をみながら掘り下げました。今日の段階でもガラスが入る土があります。 その土を取ると固い面がありますが、今日の段階では遺構は確認できません。
今日は写真がありません。申し訳ありません。
2007年10月05日
3区では 新しい土を掘り下げを行っています。山から大きめの石が流れ込んでおり、今日はその範囲の確認と除去を行いました。 ビール瓶の破片が石の下敷きになっているので、戦国の面まではまだまだかかりそうです。
なお、調査区の西側と東側では地表面で2m近い高低差があります。 平坦地があれば山側では2mの深さまで掘り下げることになりますので、まだこれから大分掘り下げていく必要があります。
ちなみに、1区の標高は約19m、2区の標高は約32m、3区の標高は46m前後です。
山から崩れてきた石の様子です。南西から撮影。
調査区中央部の壁の様子です。中央の黒い土は近現代の炭層です。その下に赤褐色の砂礫層があります。 その下を下げたところ別の炭層があります。年代は今のところわかりませんが、赤褐色砂礫層にはコンクリ片がありました。 表土より60cm位下げたところですが、まだ新しい時代なのかもしれません。
2007年10月04日
3区では今日も1層の掘り下げです。
山から崩れてきた礫層で掘りにくく、なかなか平坦地の土を掘るようにはいきません。
今日は午前中に東海ラジオの取材がありました。といっても電話録音なので、事務所の電話でしゃべっただけですが。10月10日(水) の午前8時15分から放送される予定だそうです。
2007年10月02日
今日も3区では1層の掘り下げです。
この土は缶ジュースのプルトップやビール瓶などが最近のものが入り込む土です。
今日は北壁などで部分的に掘り下げ、土の色や質が変わるところを探していきました。
2007年10月01日
今日から10月です。急に朝が寒くなり秋らしくなりました。今日は2区で実測作業、3区で1層(山から崩れてきたチャートの礫層) の掘削を行いました。
天気予報は30%だったのですが、午前中から弱い雨が降り出したため、午後は作業を中止にしました。