2区の調査成果 その1

10月11日に2区の調査成果とその評価についての記者発表を行いました。

調査期間 7月19日~現在調査中
調査面積 約34㎡ (幅2m×15m +拡張部分幅1.2m×3m)

ロープウェー乗場と三重塔の間に位置する平坦地を調査しました。これまでにまったく調査が行われていない部分であるため、 重機を使わず地表面から人力による掘削により、掘り下げていきました。

表土の下にはチャートの角礫が山側から流れ込んだ形で厚く堆積していました。このような石は裏込め石(石垣や巨石列の裏側に詰められる石) の可能性が高いため、石垣の存在が考えられましたが、調査した範囲では石垣の痕跡は確認できませんでした。戦国時代の遺構は、 この礫層のさらに下で確認しました。

調査成果

2時期の遺構面を確認しました。


○信長の岐阜入城以降の時期 (1567年~1600年)と考えられる遺構を確認

巨大な石  南北幅1.1m、東西幅1.7m。
石列    北西から南東方向に並ぶチャートの石列 (約2.5m分)
石敷遺構 砂岩の円礫(川原石) を張ったもの
集石遺構 チャート、砂岩の集石
●石列と石敷遺構の周囲には粘土の層が堆積している。
●調査区西側1/3は後世の削平により地面が削られている。

遺構面が焼けている痕跡は確認できなかった。

礎石などは確認できなかったことから、建物が建っていたとは考えにくい。

 

    戦国時代の火災の痕跡、下層遺構(斎藤時代?)を確認

上層遺構の作られた地面の下には炭・焼土の層が確認できました。遺物などによる年代確定はできていませんが、 過去の発掘調査の状況などからみて、これは1567年(永禄10年)に信長が稲葉山城を攻略した際の火災の跡の可能性があります。 その下では一段階古い時期の礎石の可能性のある石などを部分的に確認しました。 上層遺構は火災の後につくられているところから、遺構の時期は1567年?以降1600年までと考えられます。

 確認した遺構の評価について

今回確認した石列、 石敷遺構などは庭園の一部である可能性が高い

小牧山城の山麓の信長館推定地や安土城の山頂主郭部分では、これまでに庭園と呼べる遺構は確認されておらず、 もし今回の遺構が庭園の一部であるならば、初めて信長の庭園遺構が確認されたことになる。またポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著書 『日本史』には庭園に関する記述があり、その庭であった可能性もある。

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白線より上が円礫を敷き詰めた部分。 これが池などの裾に敷かれた「州浜(すはま)」に相当すると考えられる。

 

 

 

 

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 東から見たところ