2007年12月 アーカイブ

現地公開のご参加 ありがとうございました。

昨日、3区の現地公開を行いました。

開始30分前から雨が降り始めるなど天候が悪い中でしたが、それでも100人ほどの方にきていただけました。現地が狭いので、 3回ほどに分けて入れ替わりで見学していただいたのですが、皆さん熱心に聞いていただき、 説明するほうとしても楽しくやらせていただきました。

これで今年度の公開は完全に終了しました。このブログでは、今後も調査のまとめや有識者の意見、 整理作業でわかったことなどを報告していきたいと思 います。

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挨拶と全体説明

 

 

 

 

 

 

 

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現地での説明

 

 

 

 

 

 

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本日の現地公開について

今日、12月22日は3区下段の現地公開の日です。

天気があまりよくありませんが、ひどい雨にはならないようなので予定通り開催します。足元が悪いので、お気をつけてお越しください。

公開場所は3区下段の建物跡部分だけになります。12平方メートルとごく小さい調査区なので、あっという間かもしれませんが、 できるだけ多くの方にごらんいただければと思います。

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3区の発掘調査成果 上段部分

3区上段 戦国時代の遺構面を確認
・ 調査区東側で炭・焼土まじりの粘土層を確認した。粘土層の東端部分は高くなっており、段状の地形があったと思われる。 粘土には川原石が埋められていた。粘土層の上にはチャートの集石があるが、これもある段階の遺構の可能性がある。
・ 調査区西側で部分的に石を組んだ溝状の遺構を確認した。溝状遺構は川原石を含む粘質土で埋められている。 溝状遺構の段階と川原石で埋めた段階の2時期確認できる。
・ 遺物は少量であるが、遺構面以下からは近世以降の遺物は出土していないため、検出した遺構は戦国期のものと考えられる。
・ 壁際で下層の土の堆積を確認したところ、一段階古い時期の地面から掘り込まれた遺構を確認。
・ 調査区中央部は地面が削られているようで、遺構は確認できなかった。
・ 遺構面が焼けている痕跡は確認できなかった。
・ 礎石などは確認できなかったことから、調査範囲内に建物が建っていたとは考えにくい。

 今回の調査範囲では平坦地の性格を明らかにすることはできませんでしたが、この上段部分も戦国時代には平坦地として造成され、 信長居館の範囲に含まれていた可能性を確認できました。

下段で見つかった建物跡とどのように関連していたのか、今後確認していきたいと思います。

10.16 007

 

西側で見つかった川原石

部分的に掘り下げたところ、その下で石組みの側溝のような溝状遺構を確認しています。

写真は後日アップします。

 

 

火災で焼けた建物跡を確認しました! 3区

長らく更新しておりませんでした。申し訳ございません。
3区の調査成果について、本日記者発表を行いました。ここでは何回かに分けてその内容をご紹介したいと思います。

3区下段では戦国時代と考えられる火災の跡と建物の礎石を確認しました。

 

真っ赤に焼けた建物の壁土を含む焼土層が60cmもの厚さでみられ、その下から建物の礎石を1基確認しました。

概要
・ 60cmの厚さで焼土層が堆積、焼土層の中には壁土が多量に含まれる。
・ 壁土の厚さは6、7cm。
・ その下には面的に炭層があり、幅25㎝程度の礎石を確認した。礎石上面にも薄く炭が堆積していた。
・ 礎石は1基だけなので、建物の規模や方向、性格については不明。
・ 炭層下の床面はあまりしまりがなく、土間状ではないようである。
・ 上段には焼土などはなく、様相が異なる→上段から動かされた焼土層ではない。
・ 遺物から焼失年代は特定できないが、その後この場所に遺構が作られていない点を考慮すると、 1600年の関ヶ原合戦の前哨戦で岐阜城が落城した際の火災の可能性がある。

 下段平坦地には確実に建物が存在していたことが明らかになりました。これまで未調査だった場所で、 火災で焼けた建物跡が良好な状態で残存していることが判明した点でも大きな成果といえます。

 

10.30 0383区の下の段を山側(東側)から見たところ

真っ赤に焼けた建物の壁土を多量に含む焼土層が全体に見られます。

中央の穴は近代のゴミ穴で礎石はその穴の底で確認しました。

 

 

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焼土層の下には炭があり、その下に礎石があります。

 

 

 

 

 

礎石

 

礎石のアップです。

光線の具合で変な色になっておりますがご容赦ください。