D地区の調査成果その4

D地区の調査ではこれまでご紹介したとおり、周囲を区画する石垣の跡が数か所で見つかり、平坦地の範囲が推定できるようになってきました。

ではその肝心の内部についてはどうだったのか?

現在は斜面になっている部分に調査区を5か所設けて、深いところでは3メートル以上掘り下げました。整地された平坦な面が見つかったので、人為的に造成された場所であることは確実なのですが、残念ながら建物跡などの明確な遺構を確認することができませんでした。昔の地面までが深いこともあり、部分的な調査ではその内容が確認できなかったのかもしれません。今後に期待したいところです。

しかし、一部分さらに深く掘り下げたところ、もう一段階古い地面を確認することができました。その地面には炭が多くみられることから火災があったとみられます。現在、見つかった遺物の調査中ですが、信長公の時期よりやや古い時期のものが多く出るため、この地面は斎藤氏の段階の地面だと考えています。炭の跡はおそらく永禄10年(1567)の信長公の稲葉山城攻略の際の爪痕なのでしょう。

前回ご紹介した門の可能性のある礎石も焼けていますが、こちらは慶長5年(1600)の岐阜城落城時と思われます。ほかの調査地点でも火災の跡確認していますが、1567年と1600年の2つの火災の跡が信長公居館を考える上で大事な要素となります。

このD地区にどんな建物が建っていたのか、どのような使われ方をしたのか、C地区との関係や前回紹介した礎石の建物(門か)との関係など、いくつもの疑問点が残りましたが、今後居館全体の調査が進展することによりその意義が明らかになることを期待しています。

 

H20調査位置図写真の場所

今回の場所は、D地区の中央部です。

1.8 005

南西から見たところです。右側(山側)に向かって山が崩れた土が厚く堆積していますが、それを取り除くと、平坦な地面が姿を現します。

1.8 001

残念ながら、遺構らしきものは確認できませんでした。調査区の右側はさらに深く掘り下げた部分です。

 3.9 015

その下で見つかった地面の上には炭が多くみられます。

3.9 026

この段階で、焼物が比較的多く見つかりました。写真の破片は中国製の青磁です。見つかる遺物は信長公の時期よりやや古いため、この一段下の地面は斎藤期の段階の地面と考えれられます。