2009年04月20日
平成21年度の発掘調査は・・・
現在は準備のため、現場作業及び、案内所はお休みしております。
今年度は5月後半から開始する予定です。詳細な日程等が決まりましたらまたお知らせしたいと思います。
それまでの間に、昨年度後半でわかってきたことなどをご紹介できればと思っております。
D地区についてはこれまでに報告しましたので、次回からはB地区を中心にご紹介いたします。
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2009年04月20日
現在は準備のため、現場作業及び、案内所はお休みしております。
今年度は5月後半から開始する予定です。詳細な日程等が決まりましたらまたお知らせしたいと思います。
それまでの間に、昨年度後半でわかってきたことなどをご紹介できればと思っております。
D地区についてはこれまでに報告しましたので、次回からはB地区を中心にご紹介いたします。
2009年04月16日
D地区の調査ではこれまでご紹介したとおり、周囲を区画する石垣の跡が数か所で見つかり、平坦地の範囲が推定できるようになってきました。
ではその肝心の内部についてはどうだったのか?
現在は斜面になっている部分に調査区を5か所設けて、深いところでは3メートル以上掘り下げました。整地された平坦な面が見つかったので、人為的に造成された場所であることは確実なのですが、残念ながら建物跡などの明確な遺構を確認することができませんでした。昔の地面までが深いこともあり、部分的な調査ではその内容が確認できなかったのかもしれません。今後に期待したいところです。
しかし、一部分さらに深く掘り下げたところ、もう一段階古い地面を確認することができました。その地面には炭が多くみられることから火災があったとみられます。現在、見つかった遺物の調査中ですが、信長公の時期よりやや古い時期のものが多く出るため、この地面は斎藤氏の段階の地面だと考えています。炭の跡はおそらく永禄10年(1567)の信長公の稲葉山城攻略の際の爪痕なのでしょう。
前回ご紹介した門の可能性のある礎石も焼けていますが、こちらは慶長5年(1600)の岐阜城落城時と思われます。ほかの調査地点でも火災の跡確認していますが、1567年と1600年の2つの火災の跡が信長公居館を考える上で大事な要素となります。
このD地区にどんな建物が建っていたのか、どのような使われ方をしたのか、C地区との関係や前回紹介した礎石の建物(門か)との関係など、いくつもの疑問点が残りましたが、今後居館全体の調査が進展することによりその意義が明らかになることを期待しています。
今回の場所は、D地区の中央部です。
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南西から見たところです。右側(山側)に向かって山が崩れた土が厚く堆積していますが、それを取り除くと、平坦な地面が姿を現します。
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残念ながら、遺構らしきものは確認できませんでした。調査区の右側はさらに深く掘り下げた部分です。
その下で見つかった地面の上には炭が多くみられます。
この段階で、焼物が比較的多く見つかりました。写真の破片は中国製の青磁です。見つかる遺物は信長公の時期よりやや古いため、この一段下の地面は斎藤期の段階の地面と考えれられます。
2009年04月08日
D地区とC地区の境目部分の調査区では石垣の痕跡があったと前回書きましたが、その上の段の平坦地(C地区に相当)では建物の礎石が見つかりました。川原石ではなくチャートの角礫を用いたもので、最初は礎石かどうか疑わしかったのですが、きれいにしてみると柱の痕跡が確認できました。
周辺からは瓦が多く出土しています。これまでに瓦はほとんど見つかっておらず、過去の調査でも山頂の天守閣周辺と門があったと考えられる部分でしか見つかっていません。そういったことを考えると、この礎石も門の礎石に当たるかもしれません。なお、瓦は信長公の時期よりは若干新しいものです。信長公の入城直後ではなく1600年に近い段階で瓦葺きが行われたと考えられます。
調査位置はC地区とD地区の斜面を中心とした場所です。
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北東からみたところ。写真中央が礎石です。
礎石は火を受けて変色していますが、柱の部分だけ焼けなかったようです。一辺約20センチの四角い形が確認できます。
周辺からは瓦の破片も出土しました。焼けて赤くなっているものもあります。礎石・瓦とも1600年の岐阜城落城時の火災で焼けたと考えられます。
2009年03月31日
今年度も本日で終わりです。現場はいったん中止していますが、来年度も調査を継続する予定です。また決まりましたらお知らせします。
さてD地区ですが、その1でお知らせした以外にも石垣などの痕跡が見つかっています。
D-7トレンチと呼んでいるC地区とD地区の境目に当たる場所です。平坦地の範囲と石垣の有無を調べるために行いました。
手前にある石は上から崩れたもので、火を受けて赤く変色しています。その奥には巨石の根固めのためと考えられる石列が見つかりました。 ここは石垣ではなく巨石を用いて土留めを行っていたようです。
石列は緩やかな弧を描いており、ところどころに川原石を立てて使っています。これまで見つかっているものと比較すると石垣の根石ではなく、巨石を据えた根石になると思われます。当時の地面からやや上がったところにありますが、どうも当時からこのような感じだったみたいです。
この石列の上に巨石が乗っていたようですが、現在はその石はなく、裏込めの石が見えるのみです。
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上方には斜面部分に階段状に石を貼り付けてたような石積みがあります。これまで、巨石の上側はどのようになっていたか調査した例はなかったのですが、今回初めて確認できました。
裏込めの石には墓塔である五輪塔(火輪)が含まれていました。斎藤道三が居城とする前、ここは寺院関係の施設があったとみられていることから、その名残なのかもしれません。
2008年12月10日
寒い日が続きましたが、今日は比較的暖かい一日でした。
C地区では一部埋め戻しを開始しました。今日紹介するのはその中で一番西側のトレンチです。
ここではあまり遺構が見つかりませんでしたが、南側では円礫混じりの礫層が分厚く堆積していました。
そこで埋め戻しをする前に、重機の力を借りて少し掘ってみたところ、4段分のチャートの石積みが見つかりました。現状で1.5m程度の高さがあります。
いつの時代のものなのか、この部分は埋めずにしばらく調査を行いたいと思います。
写真の位置です。
重機で掘るとあっという間ですが、壊さないように気をつけなければいけません。
ある程度掘った後は人力で掘り下げます。危ないのでヘルメット着用で作業しました。勇敢な担当者2人?の写真です。
見つかった石積みを正面から見たところです。中央部分は崩れてなくなっていました。
2008年11月20日
先週末に行った信長学フォーラムも盛況のうちに無事終わることができました。ご参加いただいた方に感謝いたします。残念ながら定員オーバーのため参加できなかった方には申し訳ありませんでしたが、また来年のお申込みをお待ちしておりますのでよろしくお願いいたします。
さて、現場の状況ですが10月から今までは主に記録作業を行っておりました。一段落してきたので、今はB地区とD地区に新たな調査区を設けて掘り始めております。
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写真はB地区の下段部分を東側から見たところです。昨年調査した場所でここでは焼けた壁土の層と礎石が確認されました。一度その部分を埋め戻して今度は南北方向に掘る予定です。
南側から見たところです。右側(東側)の一段上には石垣と水路が見つかった調査区があります。中央の掘っていない部分は前回の調査区を埋め戻した部分になります。
2008年10月10日
A地区は現在の三重塔下の平坦地です。昨年、庭園の州浜の可能性のある石敷きを検出したことから、今年は範囲を広げて池の広がりと建物の確認、敷地範囲の特定に主眼をおいて調査を行いました。
新聞記事には出ませんでしたが、A地区についても成果がありましたので、ここでお知らせします。
主な検出遺構:
石敷き遺構、巨石、池状の落込み、石垣
巨石の据付痕?
A地区の模式図です。
・検出した遺構は池に関係すると考えられます。
・北側はもともと自然の山だった部分が明治時代以降に削られ平らになった様子。山が庭園の背景として利用されていた可能性もあります。巨大な石は庭園の景石とも考えられます。
・中央部には池があったようで、それが近代に埋め立てられています。埋土には壁土が多く含まれていました。
・建物は今回の調査範囲外(南部)に想定されます。
・南端、西端部で石垣の痕跡を確認、敷地の範囲がおおよそ判明しました。
岩盤まで続く石敷き
川原石とチャートの石敷きが東側の岩盤まで延びています。
池状の落ち込み(深さ60cm、南北幅6.5m)
底には粘質の土が張られています。埋土からは近代の焼き物が見つかっています。
巨石(東西長さ3m以上)
巨石はもともと立てられていた可能性があります。
2008年10月07日
B地区―上段で石垣と水路に囲まれた区画を確認。建物が存在か?
主な検出遺構:石垣、石組み溝
・ 敷地の東側、南側で石垣を、西側で川原石を詰めた石組みの溝を確認。
・ 南側の石垣には裏込めに川原石が多用されているが、山から流れる水の排水を意識した構造と考えられる。
・ 上段の石垣と溝に囲まれた部分に建物跡がある可能性が高い。
B地区の模式図です。右が山側に、左がC地区側になります。
石垣は南東部を中心に見つかりました。石垣と水路に区画された中には建物が存在する可能性が高いですが、礎石など直接的な遺構はまだ確認できていません。
東側の石垣です。崩れており下方部分しか残っていませんが、本来は4,5段分存在していたようです。山側の土留めとして機能したのでしょう。これより東側には平坦な場所はないため、ここが居館の最奥部にあたると考えられます。
南側の石垣です。左側(東側)に向かって高くなっています。こちらの石垣の裏には川原石が詰められており、東側の石垣とは作り方が異なります。すぐ後ろに岩盤があるため土留めとしてではなく排水を意識した構造と考えられます。
石組みの中に川原石が詰められた溝です。手前の川原石は岩盤に平行しており、上から見るとT字状になっています。南側の石垣と川原石の続きになっているようで、山側から流れてきた水をこの石組み溝で谷側に流したと考えられます。建物の雨落ち溝の構造によく似ていますが、現段階ではそこまでは特定できていません。溝の左側に礎石が2基ありますがこれはB地区下段の建物との関係が注目されます。2基しかないのかどうか、周辺をさらに確認する予定です。
下段では昨年、礎石と壁土を確認しており、蔵か茶室等の建物を推定しましたが、上段にも建物があったと考えられることが分かったため、下段についても改めてその性格を再検討する必要が出てきました。
2008年10月06日
しばらく更新をできなくて大変申し訳ありませんでした。
本日、調査の中間成果の記者発表を行いました。個別の成果は明日以降に順次紹介していきたいと思いますが、今日は主な遺構とそこから考えられる居館の全体像を速報的にお知らせします。
上記の絵はこれまでの調査とフロイスの記述から考えられる信長公居館の構造案です。
実は、これまで居館本体はC地区にあると考えていたのですが、今年調査を行ってもその場所で建物の痕跡は確認できませんでした。その代わり、昨年分からなかったB地区上段で石垣と水路に囲まれた区画が見つかりこの場所に建物がある可能性が高いことが分かってきました。全体を総合的に考えると、どうもB地区に重要な施設がありそうで、A、C地区には高層の建物は想定しにくいのです。
フロイスの記述には1階には20の部屋があり・・・とありますが、これはA,C,D地区にあった建物群を1階部分と認識していたのではないかという解釈をすると図のような構造が考えられます。
もちろん確定ではなく、今後の検証により変更していくことはあるとは思いますが、現時点での認識として図を公表することとしました。今後の検討の叩き台になればと考えています。
B地区の模式図です。石垣と溝に囲まれた区画があることが分かりました。礎石はまだ見つかっていませんが、中に建物が存在した可能性が高いと思われます。
南側の石垣です。
今後の予定について
現地公開・説明を行います。
10月11日(土) 午後1時から明治大帝像前にて説明 3時まで公開(少雨決行)
2008年08月17日
今日も暑かったですが、昨年のことを思うとずいぶん楽に思えます。今年は日影が多いので。お盆だけあって今週は大勢の人が岐阜公園に訪れました。案内所の見学者数も一番多い時で1日で326人とこれまでの記録を更新しました。
今日は日曜日なのでいつもの半分程度の人数(14人)でA地区のみの調査を行いました。
前回書いた明治時代以降の穴はほぼ掘り終わりました。この下がどうなっているのか引き続き調査を行う予定です。
昨年、州浜の可能性がある石敷きが見つかった部分の北側の調査区です。大きな石(上の写真)の右側も広げて調査を行っていますが、一抱えもあるチャートの石が数石あるのがわかりますでしょうか?この下には粘質の面があるのですが、これが戦国時代の地面と対応するのか、また見つかった石との関係はどうなのか、検討課題がまた増えました。
2008年08月14日
A地区ではいま、明治以降の穴を掘り下げています。
実は最初見たとき、焼けた壁土が大量に見えたので、これは戦国時代の遺構かも・・・ということで慎重に調査していました。しかし、焼土層の下からは石がたくさん出土し、その中には新しい焼き物や針金が出てきてしまいました。ということで、これは明治時代以降の公園整備のときの穴だと判断して掘り下げを行っている、というわけです。
壁土は戦国時代の建物の壁のものだと思われます。周囲に建物があった可能性も考えられます。
南から見たところです。中央部分には焼けた壁土をたくさん含む赤い土が見られます。
掘ってみると、焼けた壁土を含む土は上のほうだけでした。
現在、この土と石を取り除いています。
2008年08月10日
岐阜公園内にある岐阜市歴史博物館では、8月7日から過去の信長公居館の発掘調査成果を紹介する特集展示「信長居館跡の発掘調査から」が始まりました。2階の総合展示室(常設展示)の一角で行うミニ企画展です。1次調査から3次調査までにみつかった遺物を中心に、博物館が所蔵するルイス・フロイスの手紙が掲載されている書籍「アルカラ版イエズス会士書簡集」も展示されています。
発掘調査と合わせてぜひご覧ください。
詳しくは岐阜市歴史博物館HPで
2008年08月05日
明治大帝像前のC地区では現在調査を進めると同時に、すでに見えている巨石・石垣の掃除、洗浄を行っています。
明治大帝像の北側にある巨石は2メートル以上の高さがあり、岐阜公園内でもっとも大きなものです。この石が信長公の時期に作られたものであることは以前からいわれており、今回の調査でも同じように考えていますが、その更に南側にある石垣?については明治大帝像をつくるときに新たに作られたものだと思っていました。
しかし、今のところこの石の基底部はまだまだ土に埋まっており、戦国時代の地面からつまれている可能性も出てきました。ためしに石を洗ってみると赤くなっており、焼けたような痕跡があります。石が焼けた年代は調査で特定するのは困難ですが、戦国時代の時期に作られているとすると1600年の可能性もあります。
何気なくみていたものが実は戦国時代のものだった・・・岐阜公園内にはまだまだこんな箇所が残っているのかもしれません。
明治大帝像です。この裏に石積みがあります。
写真では伝わりにくいですが、赤く変色して一部は割れやすくなっています。
その隣の巨石です。大きいです。
これも洗っているところです。
2008年07月31日
あっという間に7月も終わりになってしまいました。(と思うのは私だけでしょうか?)
写真前にきれいに掃除しています。
円礫とチャートの角礫が、奥の岩盤に向かって緩やかに上がる感じで見つかっています。これは昨年見つかった「州浜」と考えられる石敷きの上にかぶさっています。このあと、一部掘り下げながら昨年の調査区との関係を調べてみたいと思います。
そのすぐ西側の調査区です。ガラスが入る新しい穴を掘っている様子を、担当者が腕を組んで見ています。土の色や堆積が複雑な部分なので、悩んでいるようです。調査開始から2か月強が経過しましたが、今悩む部分が多くなっています。
2008年07月25日
今日も非常に暑い一日でした。
A地区とD地区について報告したいと思います。
写真は、A地区の山際です。岩盤まで掘り進めることができました。
下のほうから川原石がたくさん出てきました。川原石がどこまでひろがるか確認しています。
横に渡してある白いものは、水を流すためのものです。山側から水がしみて流れてくるため、ここを水が通るようにしています。掘っている方々に工夫して作って頂きました。
写真は、A地区の南側、ちょうど平成の滝のそばです。写真の手前が橋側で、上から見たところです。
角ばった石がたくさんでています。手前側に石が積んであります。
ガラス片や明治時代ごろの茶碗がでてきました。
平らな土地を滝側に造っていったようです。
写真は、D地区の東側、ちょうど板垣退助像から山側へ登っていく通路のすぐ隣です。おおよその地面の高さに目線をさげて撮っています。
手前の黒く見えている地面は、細かい炭や焼土が混じっています。
古い地面かもしれません。
2008年07月23日
昨日は3連休の振り替えでお休みでしたので、今週は今日からスタートです。週末は今年初めて休日の発掘調査を行いましたが、案内所には200人近い方が訪れるなど、多くの方に見学していただきました。ありがとうございます。
今日はD地区の調査をご紹介します。
7月からA~C地区と並行して、一番南側にあたる平坦地の調査に取り掛かっております。現在は通路で分断されていますがもともと同じ平坦地であった可能性を考えているところです。
D地区でも一番北側の調査区です。現地表から30~40㎝まではガラスが混じる土ですが、その下には戦国時代の地面が残っていそうです。
現在は土砂が厚く堆積していて斜面になっています。これが当時は水平であったと思うと相当の土砂が堆積していることに・・・
とにかく上から順に掘り下げていきたいと思います。
2008年07月18日
今日は午前中雨がひどく降りました。これでいよいよ梅雨明けでしょうか。
さて、明日からいよいよ夏休みです。発掘調査のほうも週末も実施いたします。明日から3連休ですが、19日の土曜日お休みで、20日(日),21日(祝)は調査を実施いたします。主に三重塔下のA地区と明治大帝像のあるC地区で行っています。暑いですが、ぜひ現場もご覧ください。
なお、22日(火)はお休みですのでご了承ください。
2008年06月24日
週末はかなり雨が降りましたが、昨日今日は穏やかな天気でした。
月曜日は調査区にたまった雨の水汲みからスタートしました。雨は現場の壁が崩れたり土が流れたりするので、あまり好ましくありません。
今回一番ひどかったのが、A地区の園路部分から西側です。
写真の中央から手前は昨年の埋め戻した調査区を復旧した部分です。州浜と考えられる石敷きは白い土のうの左側でその石敷きのすそをとめていると考えられる石列が土のうの右側に見えます。
なんと今日はこの石列の部分から水が湧きだしていました。昨年は夏から秋に調査したせいか、こういうことはありませんでした。現場のすぐ上方に小さい滝があるのですが、その周辺にたまった水が地面をしみこんできたようです。水がしみこまない粘土層等が戦国の遺構面付近にあるのでしょう。それにしてもまるで本当の池に水が注ぎ込んでいるようで、庭園の可能性を感じさせる出来事でした。
池に流れ込む水の様子?
と、喜んでいる場合ではありません。現場が傷んでしまうので、すぐ作業員さんにも知恵を出していただき、水の流れを良くしてしみこまないように工夫していただきました。次はこうならないようになるとよいのですが。
2008年06月21日
現在13箇所のトレンチを同時に調査しているため、お伝えしたいことがいっぱいあります。雨が続いた日など余裕があるときに、ちょっとまとめてみたいと思います。
さてA地区では以前、通路部分を調査するために重機で掘り下げたのですが、このときは東にある岩盤に沿って作られている側溝を残していました。しかし調査の結果、戦国時代の面が思ったより奥に続いていることが分かり、この側溝をはずさないことには岩盤と州浜の可能性のある石敷きとの関係が分からないことが判明したので、今日は重機を入れて調査区を広げるための掘削を行いました。
山際がどのようになっているのか、今日広げた範囲を改めて掘り下げていきたいと思います。
岩盤付近の様子です。これまではこの側溝を残して掘っていました。
側溝の石組みをはずした様子です。
岩盤と戦国時代の面がどのような構造になっているのか、確認していきます。
2008年06月11日
今日もA地区の状況を報告したいと思います。
写真の場所はA地区の平坦地でも一番北側に設定したトレンチです。
昨年、庭園の池の可能性の高い遺構を平坦地の中央部分で確認しましたが、その北側がどうなっていたのかを調べるために調査を行っています。
表土をめくった段階で、礫の層が現れました。明治以降に堆積した土と考えられますが、土器などが非常に少ないのが判断に困ります。土に含まれているもので年代を推定するのですが、あまりないと掘っていて不安になります。
部分的に掘り下げた結果、新しい時期ということがわかりましたので、また全体に掘り下げていきたいと思います。
南からみた様子 この右手には三重塔があります。
2008年06月06日
本日は6月になって初めての晴天でした。天気を気にしないで調査を進めれることは非常に助かります。
本日は、明治大帝聖像がある平坦地(C地区)での調査について報告します。写真はC-3トレンチと呼んでいる場所の様子を撮影したものです。ここでは山際の植え込み部分の土盛りを調査することによって岩盤および平坦地との関係について調べることを目的としています。
5月半ばから掘り下げていき、オレンジ色の土を確認しました。土盛りの表面からオレンジ色の土までは約1.7mの深さがあります。土盛りからは缶の錆びたものなどが見つかっていましたので、新しい時代の土であることが確認できました。今はやっと新しい時代の土が取り除けた段階です。今後は戦国時代の土を目指して慎重に掘り下げていく予定です。
C-3トレンチの様子。写真左上に山の岩盤が見られます。
2008年06月02日
今日から現場も6月です。いきなり天気が不安定になったと思ったら、今日から梅雨入りだそうです。
作業をしていると10時ごろには雨がぽつぽつと降ってきました。でも、木の下は小雨程度では濡れることがないので、 作業は一日行うことができました。
滑りやすくなるので見学の方も足元にはお気をつけください。
A地区、道路部分の調査区の様子
道路面から1.6メートルぐらいのところで桟瓦が出てきました。横から見るとへの字型をしている比較的新しい瓦です。
昨年の調査でも出土しており、おそらく明治時代以降の面の上に落ちているものと考えられます。戦国時代の遺構があるのはあと、2、 30cmぐらい下でしょうか?ここからは慎重に掘り下げていきます。
南側から見た様子です。
道路の下には盛土が厚く堆積しています。
写真右側は安全のため、階段状に残しているところです。
ここも一部掘り下げて確認したいと思います。
2008年05月30日
昨日の雨が現場のシートの上にたまっていたので、今朝は水抜き作業からスタートです。
今日はA地区の様子をご紹介します。
ここは昨年2区と呼んで調査していた場所です。ここでは庭園の池の一部と考えられる石敷きが見つかったのですが、 今年度は周辺をさらに調べてその確定、建物の有無の確認等を行っていく予定です。
写真の場所は平坦地西側の斜面です。土留めのための石垣等の施設があるかどうか調べるために掘っていますが、 斜面なので足場に注意して作業を行っています。まだ、ビニール袋が入っている土を掘り下げている途中です。
A地区の南側です。フェンスの置くには赤い橋がチラリと見えています。
平坦地の南側がどうなっているか、C地区(明治大帝のある平坦地)との関係(廊下や橋の痕跡など)が分からないか調べています。
写真には石がいっぱい見えています。山側から流れてきたもので、この上にはまだ新しい徳利の破片があります。 部分的にこの集石を掘り下げて時期を確認しながら、掘り下げて行きます。
2008年05月28日
B地区の続報です。
石組み部分ですが、南側の石は1,2段で終わり、下には続いていかないことが分かりました。
どうも石が積まれているベースの土は、新しい時期の可能性が高いようです。そうすると、やはり登山道の線が強いかもしれません。 そうだとすると、ずいぶん手間を掛けた登山道だなあと・・・
北側はまだ一番下の石が出ていません。もう少し新しい土を掘りながら調査を進めたいと思います。
新しいと断定できたら、記録をとった後に壊してその下の調査を行いたいと思います。
手前が南側です。
石積みが終わっているのが分かります。
A地区、C地区も表土を徐々に掘り下げながら調査を進行しております。
明日は会議等のため、調査と案内所をお休みしたいと思います。
ちょうど雨のようなので、現場も一休みですね。
2008年05月23日
昨日紹介したB地区の石組みをもう少し紹介したいと思います。
幅は1.2mで、石材は全てチャートが使われています。北と南に石組みの面がありますが、どちらも2段以上ありそうです。
石組み間の上面はしまった礫交じりの土がありますが、ここで遺物は確認できていません。今のところ石組みは斜面に沿って斜めに作られているように見えます。
石組みは新しい土で埋まっているので、3段目以下が出る可能性もあります。いまは全体に掘り下げている最中です。作られている地面の時期がいつかということが問題になるかと思います。
これが戦国時代とすると、ほとんど壊されずに残っている可能性もあるので楽しみです。
でも昨日書いたようにこの場所には近現代の登山道があったので、もしかしたら大ハズレということも・・・いろいろな可能性を考えておきたいと思います。
(いまさらですが、写真はクリックすると拡大します)
石組みが見つかった場所です。
南西から見たところ
南側の石積みの2段目をみつけたところです。
周りの土はまだ新しい。
2008年05月22日
今日はB地区のお知らせをします。
ここは昨年3区として調査を行った谷の奥で2段の平坦地が確認できる場所です。下段では茶室か蔵と考えられる礎石が見つかりましたが、上段はその性格が良く分かりませんでした。
今年度はその上段を集中的に確認する予定で3箇所のトレンチ(細長い調査区)を設定して調査をしています。まだ表土に近い新しい時期の土を掘っているところですが、なんと石組みが出てきました。
両側に石列があります。石列間の幅は約1.2mぐらいでしょうか。2段以上ありそうですがまだまだ新しい時期の土に埋もれています。普通に考えれば土塀等の基礎などが思い浮かびますが、実は近現代登山道のルート上にも位置しています。
これがどの時期の地面に作られているか、今後に注目です。
左手前側が北側。2段分は確認しています。
石列の前面の土にはまだガラスなどが入っています。
残念ながら、この調査区は山中のため常時公開はしておりません。成果が出た段階で公開日を設ける予定です。
2008年05月20日
昨日午後から振り出した雨もあがり、今日はいい天気になりました。
それぞれの調査区で表土から徐々に掘り下げていきます。
今日は過去に調査した場所で、埋め戻した土を一部掘り起こしたりしました。
これから調査する場所と土層の対応を見るためです。過去の調査図面と対照させながら進めていく予定です。
A地区の様子
重機で掘った園路部分です。深さは1.5mほどでしょうか。
戦国時代の地面はまだ下です。ここからは人力で掘り下げていきます。
B地区の様子
手前が過去に調査した箇所です。
昔の地面の深さ、土の色を確認しながら新しい調査区(奥側)を掘り下げていきます。
C地区の様子
作業員の足元に見えている青いものはなんでしょう?
実は20年前の調査時のブルーシートです。埋め戻しの際、後で分かるようにするためにシートを敷いていたのです。 この下に20年前の調査で見つかった昔の地面があるはずです。
2008年05月19日
ついに今年度の調査が始まりました。
本日から作業員さん、補助員さんに調査担当5名を加えて最大40人体制で調査を行っていきます。
今日は発掘調査開始ということで、教育委員会事務局長と埋蔵文化財所長からあいさつをしていただいた後、 4班に分かれて作業を行いました。基本的にはA地区に2班、B地区に1班、C地区に1班という振り分けです。
調査では各地区で人力による表土の掘り下げを行うとともに、A地区では一部重機を使った掘削を行いました。機械を使うと早いですが、 遺構を傷つけないように注意して指示を出していきます。
残念ながら午後からは雨が降り出し、今日は早めに終わることになりました。
挨拶の様子です。
今日は初日の様子を紹介するということでテレビクルーの姿も見えます。
A地区北側を人力で掘り下げている様子です。
まだ表面の土を掘っている段階です。どれくらい深くなるのでしょうか?
園路の一部を重機で掘り下げます。
1メートルくらいは新しい時期の盛り土がありそうです。
クイズは良く考えると少し難しいものもありますね。
ちなみに最後の設問のヒントは「手のひら」です。
2008年05月10日
ブログだと、記事が埋もれていくので、調査位置が確認しやすいように、左のコンテンツに「調査位置・目的」の項目を作り、新たにページを設けました。それぞれの地区における調査目的も細かめに書いてあります。
19日から調査開始ですが、フェンス設置や資材搬入などの準備作業は週明けの12日から行います。
メールマガジンの申し込みが早速ありました。ありがとうございます。メール配信ならではのネタも入れられるようがんばりたいと思います。
2008年05月08日
岐阜公園は織田信長公が館を構えた地として知られています。ルイス・フロイスが「宮殿」と称して紹介している居館について、昨年度から本格的に発掘調査を開始しましたが、庭園の可能性のある石敷きや建物の礎石が見つかるなど、信長公居館跡を知る上で大きな成果を得ることができました。 今年度は遺跡の全体像をつかむため、調査区を昨年の3地区4箇所から大幅に増やし、5地区22箇所において調査を行います。
(1)調査期間・面積 平成20年5月19日~平成21年3月中旬(予定)
調査時間 9:00~16:00 ※雨天時は調査休み
調査面積 385㎡
夏休み期間中は土・日も調査を実施・公開を行います。
| 期間 | 公開・作業日 | 休止日 |
| 5/19~7/19 9/1~3月中旬 | 月-金曜日 | 土・日・祝日 |
| 7/20~8/31 | 火-日曜日 | 月曜日 |
(2)今年度の発掘調査の目的
3層4階であったといわれる信長公居館本体の礎石確認を行うとともに、昨年見つかった石敷き部分についても周辺をさらに広げて調査し、庭園の確定と付属建物の確認を行います。また未調査の平坦地など、岐阜公園の全域を調査することによって建物の位置や全体構造を把握したいと考えています。
(3)現場公開・PR
・ 昨年に引き続き発掘調査は一般公開とし、発掘調査そのものを観光資源として、見学者の方々にごらんいただきます。
・ 公園北側に設けた発掘調査案内所ではパネル展示・映像紹介に加えて展示ケースを新設、出土した土器の展示を行います。
・ ホームページではブログによる調査成果紹介に加えて、過去の調査成果資料の掲載やメールマガジンの発行(下の記事を参照)など情報発信を強化していきます。
すでに左側のコンテンツに入れていますが、簡易版のメールマガジンを発行したいと思います。 ブログで書いた主要な発掘成果の記事を月2回程度みなさんにメールで配信できればと思います。
左のリンクにある「メールマガジン」から登録ページにいくことができます。第1回目は5月中旬ごろお送りしたいと思います。 ぜひ多くの方に登録いただければと思います。
登録に際しては簡単なアンケートもお願いしておりますが、同時にメールマガジン名称募集?も受け付けます。 いい名前があればメッセージ欄にご記入いただきたいと思います。採用は一任ください。
2008年04月27日
なかなか、更新しておらず申し訳ありません。このブログも5月中頃あたりからは本格的に再開したいと考えております。
さて発掘調査の情報公開も2年目に入り、HPに対する担当者のスキルも多少向上?したので、今年は更なる情報発信をしていきたいと考えています。
第一弾として右側に「コンテンツ」の項目を作成し、昨年の現地公開の資料を閲覧できるようにしました。ゆくゆくは過去の信長公居館発掘調査関係の配布資料はここで全て分かるようにしたいと考えています。
近日中に第二弾も発表したいと思います。お楽しみに。