2008年05月27日
[資料室]にデータを追加掲載しました。
昨年度作成したチラシやリーフレットを掲載しました。
リーフレットは昨年度までの最新の発掘調査成果を紹介するもので、ルイス・フロイスが岐阜公園を案内しています。 印刷したものは岐阜公園内の発掘調査案内所や歴史博物館等で配布しております。


サンプル画像です。左のコンテンツ内にある[資料室] で詳細はごらんいただけます。
2008年05月27日
昨年度作成したチラシやリーフレットを掲載しました。
リーフレットは昨年度までの最新の発掘調査成果を紹介するもので、ルイス・フロイスが岐阜公園を案内しています。 印刷したものは岐阜公園内の発掘調査案内所や歴史博物館等で配布しております。


サンプル画像です。左のコンテンツ内にある[資料室] で詳細はごらんいただけます。
2008年05月02日
資料室のページに第1次調査の現地説明会資料を掲載しました。2年半にわたる発掘調査で、特徴的な巨石列を確認したことでも知られています。この成果を元に史跡整備が行われました。
正式な報告書が刊行されていますが、現地説明会資料を持っている人はおそらくほとんどいないのではないのでしょうか。表紙の部分をよくみるとアクセス方法としてバスとともに「市内電車線」と書いてあります。私が小学生ぐらいのときでしょうか。たしかに路面電車が走っていたのはぼんやりと覚えていますが、よく思い出せません。時代の流れを感じます。
もちろん電子データは残っていないので、資料はスキャナで読み込んで画像として保存してあります。文字がかすれて読みにくい部分もありますが、20年の年月のせいということでご容赦ください。
2008年05月01日
平成17年度に行った試掘調査の説明会資料を左の資料室内に掲載しました。調査面積は少ないですが、居館の入口を考える上で重要な成果が得られた調査であったと思います。埋蔵文化財事務所のページからもダウンロードできますが、信長居館関係はこのページにまとめさせていただきました。ご参考にしていただければ幸いです。
2007年12月11日
3区上段 戦国時代の遺構面を確認
・ 調査区東側で炭・焼土まじりの粘土層を確認した。粘土層の東端部分は高くなっており、段状の地形があったと思われる。
粘土には川原石が埋められていた。粘土層の上にはチャートの集石があるが、これもある段階の遺構の可能性がある。
・ 調査区西側で部分的に石を組んだ溝状の遺構を確認した。溝状遺構は川原石を含む粘質土で埋められている。
溝状遺構の段階と川原石で埋めた段階の2時期確認できる。
・ 遺物は少量であるが、遺構面以下からは近世以降の遺物は出土していないため、検出した遺構は戦国期のものと考えられる。
・ 壁際で下層の土の堆積を確認したところ、一段階古い時期の地面から掘り込まれた遺構を確認。
・ 調査区中央部は地面が削られているようで、遺構は確認できなかった。
・ 遺構面が焼けている痕跡は確認できなかった。
・ 礎石などは確認できなかったことから、調査範囲内に建物が建っていたとは考えにくい。
今回の調査範囲では平坦地の性格を明らかにすることはできませんでしたが、この上段部分も戦国時代には平坦地として造成され、 信長居館の範囲に含まれていた可能性を確認できました。
下段で見つかった建物跡とどのように関連していたのか、今後確認していきたいと思います。
西側で見つかった川原石
部分的に掘り下げたところ、その下で石組みの側溝のような溝状遺構を確認しています。
写真は後日アップします。
2007年12月10日
長らく更新しておりませんでした。申し訳ございません。
3区の調査成果について、本日記者発表を行いました。ここでは何回かに分けてその内容をご紹介したいと思います。
真っ赤に焼けた建物の壁土を含む焼土層が60cmもの厚さでみられ、その下から建物の礎石を1基確認しました。
概要
・ 60cmの厚さで焼土層が堆積、焼土層の中には壁土が多量に含まれる。
・ 壁土の厚さは6、7cm。
・ その下には面的に炭層があり、幅25㎝程度の礎石を確認した。礎石上面にも薄く炭が堆積していた。
・ 礎石は1基だけなので、建物の規模や方向、性格については不明。
・ 炭層下の床面はあまりしまりがなく、土間状ではないようである。
・ 上段には焼土などはなく、様相が異なる→上段から動かされた焼土層ではない。
・ 遺物から焼失年代は特定できないが、その後この場所に遺構が作られていない点を考慮すると、 1600年の関ヶ原合戦の前哨戦で岐阜城が落城した際の火災の可能性がある。
下段平坦地には確実に建物が存在していたことが明らかになりました。これまで未調査だった場所で、 火災で焼けた建物跡が良好な状態で残存していることが判明した点でも大きな成果といえます。
真っ赤に焼けた建物の壁土を多量に含む焼土層が全体に見られます。
中央の穴は近代のゴミ穴で礎石はその穴の底で確認しました。
焼土層の下には炭があり、その下に礎石があります。
礎石のアップです。
光線の具合で変な色になっておりますがご容赦ください。
2007年11月02日
今日は石に
詳しい方に、州浜状に敷かれた石敷遺構の石材を見てもらいました。
その結果、石敷遺構の石材は砂岩39、流紋岩26、安山岩8でした。いずれも近くを流れる長良川にある石とのことです。
今後いろんな方にご意見を聞く予定ですが、どうやら近隣の川原から持ってきた石である可能性が高いようです。
共同で発掘調査を行っている(財)岐阜市教育文化振興事業団の埋蔵文化財調査事務所のページに2区の記者発表資料が掲載されております。 ご参照ください。
2007年10月23日
見つかったときは、「巨石列」 の石材である可能性が考えられました。巨石列とは信長居館の入口部分に見られるもので、石垣のように土留めをするためのものです。 それがある段階で動かされた可能性が考えられたのですが、周辺を細かく調べても、石の周りの土には掘り込みの跡は見られません。
戦国時代より後にこの石が動かされたのなら、地面に穴を掘って動かした痕跡があるはずなのですが、 そのような跡は見つかりませんでした。ということは、この石は少なくとも戦国時代にはこの状態であったことになります。
なお写真では大きい石の姿がかなり見えていますが、部分的に周りの土や穴を掘り下げた結果そのように見えるだけで、
本来は石の頭が露出する程度だったと思われます。
周りには州浜と考えられる石敷きがあります。地面から頭を出していたこの石も庭の一部として取り込まれていたのかもしれません。
2007年10月18日
2区については先週木曜日に記者発表し、新聞・テレビ各社の報道があったかと思います。
信長期の庭園の可能性が高い遺構が見つかったわけですが、調査面積も少ないため、まだ庭園と断定するまではいたりません。ただ、これが、
庭園であるとするならば、信長の館に関係する庭がはじめて見つかったといえるかと思います。
実際には調査区で見つかった川原石の敷石が池などの水際に敷き詰めた 『州浜(すはま)』と呼ばれるものに相当する可能性があるわけですが、ぱっと見ただけではなかなかイメージがつかめません。
そこで不定期になりますが、改めて見つかった遺構を紹介してみたいと思います。
ちなみに現在の岐阜公園の池にある『州浜』です。
この庭は戦国時代をイメージして作られたもので、当時のものではありませんが、州浜の感じはわかっていただけるかと思います。
2007年10月11日
仲隆裕(なか たかひろ)京都造形芸術大学教授(庭園史) のコメント
石列より南側には水が流れていたか、 池であった可能性があると考えられる。その場合、 石敷遺構の川原石は州浜の石で、 立て並べた石列は州浜の裾止め石に相当するとみられる。
部分的に石が集まっている場所は、景石や手水鉢の根石の可能性がある。
州浜(すはま) - 池の水際に敷き詰めた石敷き
景石(けいせき) - 日本庭園で、 風趣を添えるために所々に配した石
手水鉢(ちょうずばち) - 手を洗う水を入れておく鉢
今後の予定
庭園遺構である確証を得るとともに、 その範囲や平坦地全体の性格、構造を明らかにするため、次年度以降も調査を実施する予定です。
10月11日に2区の調査成果とその評価についての記者発表を行いました。
調査期間 7月19日~現在調査中
調査面積 約34㎡ (幅2m×15m +拡張部分幅1.2m×3m)
ロープウェー乗場と三重塔の間に位置する平坦地を調査しました。これまでにまったく調査が行われていない部分であるため、 重機を使わず地表面から人力による掘削により、掘り下げていきました。
表土の下にはチャートの角礫が山側から流れ込んだ形で厚く堆積していました。このような石は裏込め石(石垣や巨石列の裏側に詰められる石)
の可能性が高いため、石垣の存在が考えられましたが、調査した範囲では石垣の痕跡は確認できませんでした。戦国時代の遺構は、
この礫層のさらに下で確認しました。
調査成果
2時期の遺構面を確認しました。
○信長の岐阜入城以降の時期
(1567年~1600年)と考えられる遺構を確認
巨大な石 南北幅1.1m、東西幅1.7m。
石列 北西から南東方向に並ぶチャートの石列
(約2.5m分)
石敷遺構 砂岩の円礫(川原石)
を張ったもの
集石遺構 チャート、砂岩の集石
●石列と石敷遺構の周囲には粘土の層が堆積している。
●調査区西側1/3は後世の削平により地面が削られている。
遺構面が焼けている痕跡は確認できなかった。
礎石などは確認できなかったことから、建物が建っていたとは考えにくい。
○ 戦国時代の火災の痕跡、下層遺構(斎藤時代?)を確認
上層遺構の作られた地面の下には炭・焼土の層が確認できました。遺物などによる年代確定はできていませんが、 過去の発掘調査の状況などからみて、これは1567年(永禄10年)に信長が稲葉山城を攻略した際の火災の跡の可能性があります。 その下では一段階古い時期の礎石の可能性のある石などを部分的に確認しました。 上層遺構は火災の後につくられているところから、遺構の時期は1567年?以降1600年までと考えられます。
確認した遺構の評価について
今回確認した石列、 石敷遺構などは庭園の一部である可能性が高い
小牧山城の山麓の信長館推定地や安土城の山頂主郭部分では、これまでに庭園と呼べる遺構は確認されておらず、 もし今回の遺構が庭園の一部であるならば、初めて信長の庭園遺構が確認されたことになる。またポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著書 『日本史』には庭園に関する記述があり、その庭であった可能性もある。
白線より上が円礫を敷き詰めた部分。 これが池などの裾に敷かれた「州浜(すはま)」に相当すると考えられる。
東から見たところ
2007年07月31日
右のリンクにある「岐阜市教育文化振興事業団」のリンク先を変更しました。事業団の一部門である「埋蔵文化財調査事務所」 に直接飛ぶようになります。
今回の発掘調査は岐阜市教育委員会社会教育室と埋蔵文化財調査事務所が協力して行っています。 埋蔵文化財調査事務所では岐阜公園以外でも市内の発掘調査を行っています。現在調査中の遺跡についてはHPをご覧ください。
また資料集のコーナーでは、一昨年の岐阜城千畳敷遺跡(信長居館跡)の現地公開資料をダウンロードすることもできます。
2007年07月19日
2007年07月18日
1997年、 岐阜公園の山すそに庭園「信長の庭」が造られることになり、調査が行われました。
戦国時代では、 信長の稲葉山城攻略時の火災により変色した多量の陶磁器や意図的に埋めた打刀がみつかるなど、攻城の痕跡がうかがえます。他にも石垣や階段、 井戸などが確認されました。石組井戸は一部を現地に復元しています。
鎌倉・室町時代では梵鐘を作った跡や「大寺」と書かれた墨書土器、石積、 階段などが出土しました。
天文8 (1539) 年、斎藤道三によって伊奈波神社が丸山(金華山トンネルの入口部分の山) あたりから現在の場所に移されたという伝承と合わせて考えると、 もともと岐阜公園一帯には伊奈波神社に関連する寺院があったようです。
戦国時代の石組井戸
井戸を上から見たところ
戦国時代の通路と石垣
山側を石垣で区画した通路が、現在の登山道「瞑想の小道」の登り口の延長部分で見つかりました。
刀身は鞘に納められ、差表(腰に 刀を差したときの表側)を上にした状態で出土しました。柄の鮫皮、 鞘の黒漆塗りは戦国時代の一般的な打刀拵のスタイルです。出土状況からみて意図的に埋納したものと考えられます。
梵鐘(ぼんしょう)の鋳型
室町時代の石積み遺構
信長入城後(1567年以降)に行われた造成の盛土から出土した陶磁器。稲葉山城攻落時とみられる火災で一部変色しています。
左:中国産 右:国産
ロープウェー乗場の北側には豊かな自然に囲まれた平坦地がありますが、この地に岐阜市出身の加藤栄三・ 東一両画伯を記念して美術館が造られることになりました。かつて野外音楽堂があった場所です。1988年、 この地で岐阜城千畳敷遺跡の 2次調査が始まりました。
調査では戦国時代のカマドや鎌倉、室町時代の地鎮遺構などが姿を現し、 予想もしなかった6~7世紀の古墳もみつかりました。調査結果はこの地が古くから、人々に利用され続けていたことを示してくれたのです。
戦国時代のカマドは石囲いで3つありました。床には10cmほど炭化物の層があり、 使わなくなる時に儀式を行った形跡が残されていました。カマドの存在はこの場所が台所であったことを示すものです。 信長の食事を作っていたのでしょうか?
カマドは現在、美術館内に移築復元されて展示公開されています。
カマドと石敷き遺構
2基のカマド 手前が焚き口
土師器の皿の中に銅銭5枚が入っており、さらにその内外に炭化した穀物が集中して見つかりました。 鎌倉~室町時代の地鎮めの儀式に使われたものと考えられます。
2次調査では6~7世紀の横穴式石室の円墳も見つかりました。石室の全長は7.2mで主にチャートを石材に使っていました。
1984年、 岐阜市制100年記念事業として岐阜公園内に信長居館を再現する計画が持ち上がりました。 その再現にあたり発掘調査による建物跡などの確認が必要となり、 その伝承地である千畳敷で初めて調査が実施されることになったのです。市制100年を迎える4年前のことです。
同年11月12日発掘調査が開始され、 9日後には初めて板状の巨石が出土します。それから約2年半の間調査が進められ、 他に例をみない巨石を並べた大規模な虎口や通路が姿を現しました。それはフロイスの記述にある 「おどろくべき大きさの裁断されない石の壁」、「はなはだ長き石の塀」を彷彿とさせるに足るものでした。
結果として居館本体はわかりませんでしたが、壮大な石の城造りを試みた信長の先進性をうかがうことができたのです。 この虎口部分は復元整備され、当時の様子を垣間見ることができます。
左:岐阜公園を西から見たところ 右:1次調査の空撮写真(西から)
巨石列と通路
(画像をクリックすると拡大します)
巨石列
通路に使われている巨石を横から見た写真です。大きな板状の石を立て並べ、裏側に石(裏込め石)を詰めて造っている様子がわかります。
出土した土器・陶磁器