歴史

現在までの岐阜城跡の歴史を解説します。


             岐阜城航空写真(西側から)

~道三の築城まで~

(景勝地と信仰の場)

岐阜城跡があるこの金華山は、古くから多くの絵画に描かれ、和歌に詠まれるなど名勝地として知られてきました。また、この山は別名を「稲葉山」と呼び、お城以前は伊奈波神社の社地であったと考えられています。時代を通して「神聖な山」として人々の信仰を集めていたようです。

(初期のお城)

ここがお城としていつごろから成立したのか、詳しくは分かっていません。江戸時代以降の記録では、鎌倉時代に二階堂行政が最初に築城したと伝えられていますが、確実にお城として使われたのが分かるのは大永5年(1525)ごろのことです。
 また後世の記録では、天文8年(1539)ごろに斎藤道三が稲葉山城を築城するにあたって、現在の場所に伊奈波神社を移したと伝えられています。

              丸山(旧伊奈波神社伝承地)

~斎藤氏三代の居城(道三・義龍・龍興)~

斎藤道三は、ここ稲葉山城を拠点とし、麓に本格的な城下町を整備しました。道三は着々と下剋上を進め、天文21年(1552)、美濃の守護・土岐頼芸を追放し、名実ともに美濃の実権を握りました。その後、天文23年(1554)に家督を息子の義龍に譲ります。
 道三と義龍は次第に不仲になり弘治2年(1556)、遂に激突し、「長良川の戦い」で道三は敗死しました。義龍は美濃の領国経営を進めますが、永禄4年(1561)に急死します。息子の龍興が跡を継ぎますが、永禄7年(1564)に竹中重治(半兵衛)・安藤守就らに一時稲葉山城を占拠されるなど、斎藤家の弱体化は明らかでした。
 
           斎藤道三像(岐阜市 常在寺蔵)

~信長入城~

永禄10年(1567)、尾張の織田信長は斎藤龍興を破り、美濃を攻略しました。信長は本拠地をここに移し、町の名をそれまでの「井の口」から、「岐阜」に改めました。
 信長はこの岐阜城を拠点に天下統一に乗り出します。足利義昭の征夷大将軍への補任と二条の御所造営、伊勢長島攻め、延暦寺焼き討ち、義昭追放、浅井・朝倉氏の滅亡、本願寺攻撃、長篠合戦などは、すべて岐阜在城時の出来事です。天正3年(1575年)に嫡子の信忠に家督を譲り、信忠が岐阜城主となります。信長自身は安土へ移りました。
 
           織田信長像(岐阜市 崇福寺蔵)

~本能寺の変~

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起こり、京都にいた信長・信忠は家臣の明智光秀に討たれます。天下統一目前での出来事でした。その光秀も、中国攻めを行っていた羽柴(豊臣)秀吉と6月13日に「山崎の合戦」で戦い、敗死します。
 同年6月27日、「清須会議」で織田家の後継者は信忠の息子・三法師(後の秀信)に決まり、織田信孝(信長の息子)がその後見人となって岐阜に入ります。信孝は柴田勝家と組み、次第に秀吉と対立し、天正11年(1583)に降伏、尾張の大御堂寺で自刃します。
 以後、岐阜城主は秀吉の人事のもと、池田元助(池田恒興の子)、池田輝政(元助の弟)、豊臣秀勝(秀吉養子)、織田秀信(信長の嫡孫)と交代します。

~関ヶ原合戦前哨戦と廃城~

慶長5年(1600)、関ヶ原合戦が起こります。岐阜城はその前哨戦の舞台となりました。城主・織田秀信は西軍方についたため、東軍方(福島正則、池田輝政ら)に攻められます。結果、岐阜城は落城し、秀信は高野山に追放されました。関ヶ原合戦で勝利した徳川家康は岐阜城を廃城とし、南部に加納城を築きました。
 江戸時代、岐阜の町は幕府の直轄地となり、後に尾張藩領になります。城山の一帯は「御山」として一般の立ち入りが禁止となり、大事に守られました。
 
   寛政6年(1794)ごろの岐阜町の様子(「岐阜町絵図」岐阜市歴史博物館蔵)

~現在まで~

明治時代に入り、金華山は一般に開放されるようになりました。明治15年(1882)山麓に岐阜公園が開設され、次第に整備されていきます。明治43年(1910)、木造トタン葺き三層三階の初代岐阜城天守が山上に造られました。また、大正6年(1917)には山麓に三重塔が建立されました。これらに伴い登山道の整備も行われました。初代天守は戦時中に失火で焼失しますが、昭和31年(1956)に復興のシンボルとして現在の天守が建てられました。
 平成23年(2011)、金華山国有林の範囲を中心に山麓居館を含めた約209ヘクタールが「岐阜城跡」として国の史跡に指定されました。
 
                  初代天守

 
                史跡岐阜城跡の範囲

~岐阜城関連年表~